何でもないなら初めから言わないでもらいたい。気になるじゃないの、と亜沙子はため息をついた。
「家まで送ろうか柊君」
かつてない気遣いを突然見せてきたので亜沙子はつい笑ってしまった。
「急に優しくしないで下さいよ、気持ち悪い」
今日は円といい、黒峠といい、どこか変だ。それとも、心配ごとがあって神経が過敏にでもなっていて、そう感じてしまうのだろうか。いずれにしても、はっきりしないことで悩んではいられない。
今、考えなければならない問題は山積みなのだ。
アルバイトをするか否か。始めるとしたら、学校で推薦している家庭教師のアルバイトもいい。だが、他人の勉強を教える余裕などはたしてあるだろうか。自分の勉強で手一杯だというのに。教員免許取得を考えている自分としては、そんな泣き言を言っている場合ではないのだが。
将来、どうなるんだろう。
というか、そんな先のことを案じる前に、来週提出するレポートについて悩まなければ。
ほら、恋してる暇なんてないじゃない。恋って何よ。アホらしい。
亜沙子はどっと疲れを感じ、とぼとぼと駅へ向かって行った。
そんな悩める亜沙子の後ろ姿を、黒峠は立ったまま見送っていた。
「柊君、確認したいんだけど、君は」
先ほど言いかけた言葉をもう一度繰り返す。
「君は、本当に何も知らないんだな?」
届かない問いに当然答えは返ってこない。黒峠の独り言は誰が聞くこともなかった。
時折、柊亜沙子は何かを知っているような気がするのだ。どうしてそう思うのだろう。彼女は普通の女子大生だというのに。
そう、普通の子だ。何も知るはずがない。
黒峠はかすかにため息をつくと、もう一度周囲に首をめぐらせた。
亜沙子をつけていた人物の陰はもうなかった。辺りがいつも以上に静まっているようだった。どこかの物陰から、何者かがまだこちらを見張っているのだろうか。だとしても徹底的にさがすのは面倒だからやる気がしない。
柊亜沙子のストーカーがただのストーカーで、さっさと問題が解決してくれればいいのだが。またややこしい事態になると彼女はやかましくがなりたてるだろうし、殴られるのはたまらない。
もう巻き込みたくない。柊君には、平凡な日常がよく似合っているから。
黒峠は大きなくしゃみをした。
「風邪かな」
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