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「明日は今日みたいに早くないんですよね」
「そうだね。人に見られないよう、夕方にこっそり行く方がいいね」
 こっそり。今度はどこに行くのだろう。不安を覚えつつ亜沙子は紅茶を飲んだ。
「どこに行くんですか」
「ホテル」
 思い切り吹き出した。黒峠が立ち上がる。
「汚いな柊君! 飲み物を吹き出すなんて、君はどういう教育を受けているんだい!」
「だって……」
 吹き出したくもなる。円が布巾を持って駆け付けた。
「すいません。有紀さん、いつも言葉が足りなくて人に誤解を与えるんです。カラクリの教祖山岡省吾は、昔ホテルを経営していたんです。廃墟になってかなり経ちますが、以前はカラクリのメンバーが集会場として利用していたらしいんです。何か手掛かりがあるのではないかと思ったんです」
 それならそうと黒峠も早く言えばいいのに。亜沙子は雑巾で床を拭いた。廃墟のホテルにそう簡単に侵入出来るものなのかと思ったが、そこは心霊スポットとして有名らしくどこからでも入れると言う。しかし。いつもの疑問が頭に浮かぶ。
「私が行く必要があるんですか」
「あるさ。女性の勘は頼りになるからね」
 それにしてもそんな危険なところに、しかも何故夕方に行かなければならないのだろう。
「円さんは?」
 黒峠と二人では心配だ。
「すいません。明日は用事があって休ませてもらうことになっているんです」
 円は頭を下げる。年中こき使われているのかと思っていたが、一応休ませてもらえることもあるようだ。謝らないで下さいよ、と手を振りながら、あることに気づいた。円がいないから自分を連れて行こうとしているのだろうか。一人で行くのは心細いから。
「そういうことですか先生」
「何が」黒峠はにやついている。
「一人で行けばいいじゃないですか」
「だって一人より二人の方がいいじゃないか。もし誰かに襲われて追いかけられたとしよう。二人が別々の方向に逃げれば、二分の一の確率で私が助かるじゃないか」
「最低」
 頭を抱えた。円がその場を取り繕うとする。
「柊さん冗談ですよ。ねえ有紀さん、見捨てて逃げたりしませんよね」
 黒峠は笑顔のまま首を傾げた。
 頷かないのか。
「ただいまー」
 円里沙が元気に事務所の戸を開けて入ってきた。
「ここはお前の家じゃないんだぞ」黒峠は里沙の頭を撫でた。里沙はやけにご機嫌だ。聞けば、明日は誕生日だと言う。円が休みをとった理由が分かった。
「そうか。里沙ちゃん誕生日なんだね。ちょっと早いけど、おめでとう」
「ありがとうお姉ちゃん」
 明日は誕生日のパーティをするのだと里沙は言った。いつも黒峠に振り回されている円は娘と過ごす時間も少ないだろう。本音を言えば明日は円にもついて来てもらいたかったが、親子水入らずの誕生会を邪魔するわけにはいかない。諦めて、黒峠と二人で行くしかないだろう。
「亜沙子お姉ちゃんは明日、何をするの?」
「私は……」横目で憎たらしい黒峠を見た。「このおっさんとお出かけするの」
「失敬な。私はまだ君におっさん呼ばわりされる歳ではない」
 どうせなら里沙の誕生会に参加したい。明日のことを考えると気が重かった。



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