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 事務所から遠くないということは、ここからはかなり遠いということになる。
「どうせならそちらの方を先に行けばよかったのに。また随分かかるじゃないですか」
「いいじゃないの、たまにはドライブも。みんなで歌でも歌おうか」
 歌う気分ではなかった。やめてくれと言うのに、黒峠は歌い出す。亜沙子の知らない曲だった。円いわく、作詞作曲は黒峠だそうだ。覚えるように黒峠は言ったが、断固拒否した。歌が終わったかと思うと長くてくだらない話が始まる。非常に苦痛だった。酷く眠かったが、もう二人に寝顔を見せるわけはいかない。頬を叩いて眠気と闘った。
 昼過ぎになり、ようやく見なれた町へ帰ってくることが出来た。黒峠とのドライブはまるで地獄のようだった。逃げ場がないのだ。耳を塞いでも奇妙な歌や腹立たしい話が聞こえてくる。途中で車を降り、徒歩で帰ろうかと思ったほどだ。だが嫌な顔ひとつしない円を見ると、自分もこれくらいは我慢するべきかもしれないと思い必死に耐えた。
 重村は四階建てのマンションの二階に住んでいるらしい。マンションの前にはパトカーと車が一台ずつ停まっていた。
「警察がいるよ」
 黒峠は嫌そうな顔をした。
「まだ何もつかめていないんでしょうね」円はパトカーと離れた場所に車を停めた。
 黒峠は車から降り、また後部座席のドアを開ける。これ以上嘘をつくのはたくさんだ。亜沙子は抵抗した。
「もう嫌ですよ私は。大体、私がついて行かなければならない理由があるんですか? どうしてですか。さみしいんですか」
「正直に言おう。さみしいんだ」
 正直に言われても困る。その場で揉めていると、見覚えのある小さな男が近づいてきた。くたびれて見えるその男は、浅野だった。ポケットに手をつっこんでいる。
「帰れ」
 第一声はこれだった。何がおかしいのか黒峠が笑う。
「帰れよ。お前を見た日はろくなことがないんだ。レジで金を払う時に小銭をぶちまけたり、紙で指を切ったり、カツ丼に髪の毛が入ってたりする。電車に傘を忘れたこともあった」
「傘を忘れたのは浅野さんがうっかりしていただけでしょう。ところで、何か分かりましたか」
「明日の降水確率は二十パーセントだな」
「聞いてませんよそんなこと」
 刑事と探偵の意味のない会話が続く。寝不足なのか目の下にくまがある浅野は、何度もあくびを繰り返していた。つられて亜沙子も一度あくびをした。
「私は第一発見者の目撃者ですよ。事件のことを教えて下さい」
「第一発見者の目撃者に事件の詳細を知る権利はないぞ」



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