22


 黒峠は去り際、窓から身を乗り出して「明日は早起きしてくれよ」と大声を出した。迎えに来る気なのだろうか。またどこかへ連れまわされるのかもしれない。
「どうする友美、あがってく?」
「いいわ」友美は笑った。
「亜沙子、顔が怖いわよ。妬いてるの?」
「妬いてる? 何を。誰を。妬くわけないじゃない。私、あの人のせいで散々な目にあってるのよ」
 友美は怒る亜沙子を笑ってなだめた。

 * * * *

 せんべいがしけるのは気にならなかった。しけったところでせんべいはせんべいだ。カビが生えなければ食べられる。亜沙子を降ろして車が動き出してから、黒峠はずっと黙っていた。ただひたすらしけったせんべいをかじっていた。
「有紀さん、今の子は……」円が言った。
「知らないんですよ」
「え?」
「私は知らないんですよ、あんな子」
 黒峠は腕を組んだ。「猫のマリーなんて知らないし、弟さんに会ったこともない」
 人の名前を忘れることはよくあった。顔だって覚えていないことがある。しかし、彼女とは間違いなく初対面だった。話してみてそれは分かった。円も羽田友美を知らなかった。ペットの捜索を依頼したなら、円も会っているはずだ。黒峠は滅多に一人で仕事を引き受けなかった。大体、円を交えて依頼者との三人で話をする。円は人の顔を忘れたりしない男だった。話をした時、羽田友美は円に声をかけなかった。彼女も円を知らないのだ。
「何故、あの子はそんな嘘をついたんでしょうね」
「分からない」
 黒峠は俯き、目を閉じた。
 羽田姉弟と面識はなかった。しかし、どうしてか名前には覚えがあった。どうしてだろう。
 ゆっくりと目を開けた。
 分からない。



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