21


 自分は無力だ。
 みんなを元に戻す方法も分からず、誰かの助けを借りることも出来ない。音の外れた黒峠の鼻歌が、頭の中で繰り返されていた。無力な私が出来ること。それは、おとなしく家に帰ることだけだった。

 * * * *

 恐ろしくゆっくりと歩いていたせいか、家に着く頃にはもう夕方になっていた。
 駅の休憩所で長い間椅子に座り、電車を何本も見送った。その間、退屈だと思うことはなかった。次から次へと変な人間が目の前に現れるのだ。見ていて飽きない。りんごを頭に乗せて演歌を歌っている老人がいれば、下手なスキップをしながら九九を言っている女性もいた。
 どう見ても奇妙な光景だが、誰もが不思議に思わないらしい。まるでこれがいつもの様子だとでも言いたげだ。こうなると、いつもこのようだったかと思いたくなる。そんな考えに支配されそうになる度、亜沙子は頭を振った。
 リビングでは、母の美和子が怪しげな踊りを踊りながらテレビを見ていた。ワカメを連想させるような踊りだ。父の純一はというと、キッチンで新聞紙をきざんでいる。いっそのこと、笑ってしまえばいいのかもしれないが、そんな気にはなれなかった。制服を着替え、とりあえずテレビでも見ることにした。
「お母さん、面白い番組やってる?」
「いまいちね」
 テレビの画面には砂嵐が映し出されていた。耳障りな音が、大音量で響いている。
「テレビなんかより、冷蔵庫をじっと見ている方が楽しいわ」
「へえ」
 この支離滅裂な会話にも、悲しいことに少しずつ慣れてきた。
 亜沙子はチャンネルを回した。この時間見るものと言えば、せいぜいニュースしかないだろう。特に面白くもないニュースを、何となく見つめていた。どこかの地方で起きた火災の様子を伝えている。そこである重大なことに気づいた。テレビに出てくる人々は、「まとも」なのだ。ニュースキャスターもリポーターも、普通だ。うどんの話を持ち出しもしなければ、逆立ちしてお経を読むこともない。
「お母さん、これどう思う?」
「かなり燃えてるわね。まるで高校の時に合宿でやった、キャンプファイヤーのようだわ。あの時は佐藤君の頭に火の粉が飛んで、大変だったわあ」
 聞く相手を間違えた。急いでチャンネルを回してみる。どの局の番組にも、おかしな人は登場しなかった。これは大発見だ。
「私今日は晩御飯いらないから」
 部屋に戻ろうとする亜沙子に、母が呼びかけた。
「あら、今日はお父さんの特製新聞紙の油炒めなのに食べないの? 絶対美味しいわよ」

 * * * *

 亜沙子はベッドに寝そべって考えた。
 一体どれほどの人がおかしくなっているのだろう。駅にも学校にも交番にも、まともそうな人間はいなかった。てっきり世界中の人間がおかしくなってしまったのだと思っていたが、そういうわけではないらしい。それはテレビや新聞で確認した。
 そうすると、おかしくなったのは自分の周りの人間だけなのか。だが、どうして。
 おもむろにパソコンの前に座り、インターネットに接続してみた。ネットの世界にも異常は見られないし、みんながおかしくなったと大騒ぎしている者もいなかった。自分以外に、この異変に気づいている者はいないのだろうか。
 ああ、いた。あの黒峠という妙な男だ。とことん妙な男だった。
 何だか眠い。今日はたくさん彷徨い歩いたからだろうか。亜沙子はいくらかの友人にメールを送ってみた。
『今、何してる?』
 返信は大抵同じような内容だった。
『夏休みの、居眠りの宿題を頑張っているところ!』



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