『――私は若い予言者に出会った。彼女は過酷な運命を背負っている。惨いことだ。私が彼女にしてやれることは何もないのだろうか。偉大な力は、必ずしも人を幸せにしないのかもしれない――(第六話「若き予言者」より)』
これは夢だと、ダーニャは思った。
何故なら、まともに立っているからだ。試しに歩いてみた。歩ける。やはり夢だ。
夢は覚えている方ではない。見ているのかもしれないが、目覚めると忘れてしまっている。
夢の中とはいえ健康な脚を手に入れたのだ。思う存分歩いてやろうか。
何だか楽しくなってきた。
そこでふと気がついた。靴をはいている。それも、サンダルではなく、カジュアルなパンプスだ。少し窮屈だった。
着ている服も見慣れない。白いワンピースにカーディガン。ネックレスも首にかけていた。腕には赤いベルトの洒落た腕時計がついている。
時計の文字盤のロゴマークに注目する。
スタエム(西大陸)で高級時計メーカーと言えばここ、と言われるような老舗メーカーのロゴだ。この腕時計をはめるということはステータスになる。特別な贈り物として喜ばれる品だ。
このファッションはおそらく、二十世紀以降のものだろう。正確な年代は特定できない。いちいち記憶などしていないうえ、ファッションの移り変わりはこの時代、微妙なものであり、判別の材料には向かない。
夢の中だからか、未来を見る能力は失われていた。いつもは苦もなくアクセスできるはずなのだが、まるっきり遮断されている。
ぼやけていた周囲のものが、次第に見えてくる。ふやけた景色が引き締まる。
ダーニャは特別驚きもしなかった。夢だからだ。
アスファルトが見える。ガードレールが見える。
道路標識、街路灯。
街を見下ろす位置に立っていた。
ネオンが煌々と光っている。オフィスビルの窓から漏れる明かり。空の星より明るい夜景。点滅する信号。遠ざかる自動車のヘッドライト。
現実感のある夢だ。いつも見ていた未来の様子と寸分違わない。普段は本当に見ていただけだったが、今はこうしてその中にいる。
絵画の中に迷いこんだような不思議な感覚だ。
別のところから剥がして貼りつけられたせいで、結局は浮いていた。完全には馴染まない。肉体も魂も、本来ここはあるべきところではない。だからどうしても気を抜くと剥離しそうになる。
「何年かしら」
ご丁寧に髪型まで時代に合わせて整えられている。この待遇には満足した。
「二〇〇三年」
ダーニャの問いに何者かが答えた。
しかし、辺りに人影はない。しかも、答えたのは自分の声だった。似ていたのではない。確かに自分の声だった。
「あなたは誰?」
どこかへ向かって尋ねてみた。
「私達は流動的で不可測な存在。その集合体で、器がないの。珍しいことだけどよくあるのよ。平たく言えば、魂のなりそこないってところかしら。あなたの声を借りています。他のモデルを用意するのも面倒でしょう」
どこかから声が聞こえた。きょろきょろと首をめぐらせたが、声の主をさがすのは諦めた。体など持たないから、声も借りるのだろう。
「悪いけど、意味がわからないわ」
「ねじれがあると集まっちゃうの。すぐ拡散してしまうけどね。私達、普段は干渉しないの。それは私達が決めたことじゃなくて、もう決まっていたことなんだけど。でも、あなたは特別。だから接触したのよ」
お手上げだ。何時間話をしても、理解できそうにない。ダーニャは自分なりに解釈することにした。
つまり、私は法則に反する特異な能力を持っている。しかもそれは、秘匿を強要される何の役にも立たない気の毒な能力。だからそれに同情して摩訶不思議な存在が可哀想な私にご褒美として、ちょっとした時間旅行を与えてくれた。
「全然違うけど、それでいいわ」
口には出さなかったが伝わっていたらしい。それでいいというのだから、よしとしよう。
流れに身を委ねることには慣れている。元よりこだわらない性格だ。
「二十一世紀だったわね」
「そう。二十一世紀。ソラトルよ」
自分の声との会話を続ける。
改めて自分の体を隅々まで確かめてみた。借り物のようだ。二本の足で立つということは、こんなに簡単なことなのか。思わず苦笑した。
爪には淡紅色のマニキュアが塗られている。何のことはない、ただ爪につやがあるだけなのだが、純粋に綺麗だと思えた。その光沢に目を奪われながら、声の言っていたことを心の中で繰り返した。
二十一世紀。ソラトル。
ホートエム(北大陸)南部のあの大国だ。
「ソラトルの、どこの州?」
「コーリオール州」
それならもしかして、彼がいるかもしれない。以前見た未来のことを思い出してみる。丁度この時代、彼が住んでいたはずだ。
「左を見て」
声が言った。
それと同時に何かが地面に落ちる音がする。ダーニャは顔を向けた。
彼は坂の途中に立っていた。地面にものを落とした人物が、ダーニャの方を見上げている。
車が一台、二人の横を通り過ぎる。ライトが一人の男と一人の女を夜道に浮かび上がらせた。
男は呆然と立ち尽くしていた。
緑のフードつきトレーナー、ジーンズ、スニーカー。
「ダーニャ……?」
タムの驚愕の表情があまりにおかしくて、ダーニャはつい吹き出した。
驚くのは当然だろうし、笑うつもりもなかったのだが、彼の反応が大袈裟すぎるのだ。
「ダーニャなのか? まさか。いや、確かにダーニャだ」
でも、そんな、と言いながらタムは前後に揺れている。前に出るべきか後ろに下がるべきか迷っているようだ。
ダーニャはタムに近づくと、彼が落としたスーパーマーケットの袋を拾ってやった。字を習ったことはないが、西語はある程度読めた。
「チューブのコンデンスミルクが入ってるわ」
「サンディが買ってこいと言うから……」
半信半疑の顔つきでダーニャを見つめながらタムが言う。
「あなた達は相変わらずのようね」
二人の上を過ぎた長い年月は彼らの力関係に何ら影響を与えなかったようだ。
タムはダーニャの瞳を覗きこみ、そこに彼女が彼女であるというなにがしかの証明を認めたのかうろたえの色は消えた。
「ダーニャなんだな」
ダーニャは微笑を浮かべて頷いた。
「だけど、どうして」
「わからないわ」
予期せぬ再会だった。これまで全てを見通してきたダーニャにとって、予期せぬ出来事というのはこの上なく新鮮で、かつ愉快だった。
「これは夢なのよ。私の夢。すぐに覚めてしまうわ」
ダーニャがタムと会ったのはほんの数週間前だが、タムがダーニャと会ったのは何十世紀も前だった。
ダーニャは己の能力で、過去や未来を知ることしかできなかった。しかし今はこうして交わっている。それはひどく贅沢なことだった。
まつ毛に触れる風、たくさんの音と気配。ガスで汚れた空気の匂い。
一時だが能力から解放されたダーニャは、貪るように世界を感じた。この時だけは、恐れずに世界に触れられる。
タムを見た。
彼は変わらない。しわ一本すら増えていない。
しかしそれでいて、変わっていた。変化が生じたのはおそらく彼の内面だろう。以前より幾分逞しく、透明度が高くなった。
「色々あったのね」
「あったさ。知ってるだろうけど」
再び並んで立ってみると、同じように親しみを覚えた。身に余る能力と事情を抱えて、多くのものと接する苦悩。それを味わった者同士の近しさだ。
「ダーニャ」
タムが思いつめたような表情で彼女を呼ぶ。ダーニャは返事の代わりに首をかしげた。
「いつかまた会えたら、ずっと言おうと思っていたことがある」
「何かしら」
「結婚してくれ」
僅かな時間、二人は見つめ合った。
沈黙はダーニャが吹き出したことによって破られた。
こみあげてくる笑いを抑えられず、腰を折って笑い続ける。タムは真面目な顔をしていた。
「俺は本気だよ」
「そう。そうね、ごめんなさい。待って……」
胸に手を当てて息を吸った。
「それにしたって、唐突すぎるわ。ねえ、順序ってものを知らないの?」
タムは鼻の頭を掻いている。困ったように眉根を寄せていた。
急な告白はまだダーニャのことをくすぐっていたが、本人が至って真剣なので礼儀としてこれ以上笑うことはどうにかこらえた。
「ここで別れても、また会えるだろうか」
タムが呟く。
「ダーニャ・ルトという集積とはもう会えないでしょうね。私は本来、この時代では朽ちているんですもの」
別れの時が近づいていることを、両人とも察知していた。
タムはこの状況に最も相応しい言葉をさがしているようだったが、焦っているからか結局気の利いた台詞は浮かばないらしい。
「でも、『私』には会えるわ」
「どうやって?」
「あなたが見つけて」
ダーニャは微笑んだ。
惜別をこめて。感謝をこめて。励ましをこめて。
何か言おうとタムが踏み出すと、持っていたビニール袋が音を立てた。タムは睨んでそれを地面に捨てる。従者のことが頭をかすめたに違いない。
「最後に、聞きたいことがある」
「何かしら」
「俺のことを、どう想ってる?」
ダーニャは柔らかく微笑むと、左右に首を振って、人差し指を唇にあてた。
「教えない」
溶暗。
最後まで見えていたタムの瞳が闇に溶けた。
「あなたに会えてよかった」
どちらかが、そう言った。或いは、どちらもそう言ったのかもしれない。
目が覚めるとダーニャはいつもの粗末な小屋に寝ていた。
肌寒く、頭痛がする。天気が悪いのか、外の景色はくすんでいた。
「不器用な人」
笑った形の唇の上に人差し指をあてた。
いつものように、頭の中で自分に残された年月を数えてみた。また一日減った。
そして世界は禁忌の力を持つダーニャ・ルトが塵に還る日を静かに待っている。
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