手枷の痕


『――私はつまらないことを気にしている。情けない男だと思う――(第五話「濡れ衣」より)』



 空気が澱んでいる。
 かびくさく、湿った臭いがまとわりつく。
 光もろくにさしこまない部屋だった。身を横たえると汚れた土の臭気で気分が悪くなる。
 膝を折り曲げ、冷たい壁によりかかった。
 サンディは動く度に響く束縛の音を煩わしく感じていた。手枷が鎖で繋がれているのだ。こうして自由を奪われたのは初めてのことかもしれない。
 ルトは決して私を繋いだりしなかった。
 前の主人を懐かしく思い、頭を垂れた。
 タムと行動を共にしてから、これほど動揺したことはなかった。あの「匂い」。
 それに気がついたのは、この邸宅についてすぐのことだ。まさか、と思った。
 残り香が証明するのは、あの人がここにいたという事実だ。サンディは嗅覚が鋭い。人間にはわからないわずかな香りを嗅ぎ分けられる。
「どうだ、気分は」
 錆びてきしんだ扉の開く音と共に、邸宅の主人が入ってきた。
 サンディは顔を伏せたままだったので、男の太い足と皮のサンダルしか見えなかった。
「お前がタムという男でないことは知っている」
 ある程度予想はしていた。
 サンディは男を無視し続けた。反応がないのを不満に思ったのか鼻を鳴らし、男は膝をついた。松明の光がちらちらと床を這っている。
 顔を近づけ、男はサンディに囁いた。生温かい息が耳にかかる。
「上手く人に化けたようだが……。やはり、象には鎖がお似合いだな、サンディ」
 サンディは反射的に顔を上げた。
 いきなり男に手の甲で頬を殴られ、倒れこむ。
 血で汚れた土の匂い。この牢で一体どれほどの惨い行いが繰り返されてきたのだろう。
 男は加虐趣味的な笑みを浮かべ、満足そうにサンディを見下ろしている。
「どうして正体を知っているか聞きたいか。数日前、お前をよく知る者が訪ねてきた。そいつに、お前といずれ会うことになる、そう伝えてくれと頼まれてな」
 あの匂いは気のせいなどではなかった。
 心の臓が胸の内で暴れている。
 目眩がした。ぐらぐらと、頭の芯が揺れていた。
 いずれ会う。そう言ったというのか。何を考えて、何をしにここへやってきたのか。
 男に聞けば何かわかるかもしれないが、尋ねたくなかった。
 何か知りたい。何も知りたくない。相反する思いに体が裂けてしまいそうだった。
 男は分厚い手を差し伸べて、先程殴った頬に触れた。
「お前の情けない主人は無傷で帰してやったから感謝しろ。この先自分の身がどうなるか、気になるか?」
「いいえ」
 また顔を伏せた。どのようなことになっても、受け入れるつもりだ。
「――と言ったな」
 男が、サンディのよく知る人物の名を口にする。心臓がつかまれ、血が凍りついた。息もつまる。
「そいつにもう一つ、伝言を頼まれた」
 嫌だ。聞きたくない。
 耳を塞ごうにも手枷が邪魔だった。サンディはもがいた。
 男が手枷をつかんで乱暴に引き寄せる。
 聞きたくない。
 悲鳴は声にもならなかった。
 血と汚物の臭い。男の温い息。ちらつく松明。あの人の名前。
 身の回りの全てのものが破滅を暗示しているようだ。
 男はサンディの顎をつかみ、耳打ちした。
「お前のことを、愛しているとさ」
 ゆっくりと男は言った。
 その言葉は体内に入りこみ、溶けていく。甘く絶望的な感覚に支配される。
 耳を塞げない代わりに、目を瞑ることにした。
 苦しい。
 男は腰を上げ、去っていった。耳障りな、扉のきしむ音。
 手枷が急に重くなった。
 祈りを捧げる信徒のようにうずくまる。震えていた。震えが止まらない。
 私もあなたのことを愛している。だから、こんなにも苦しいんだ。
 愛しい、あなた。



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