饒舌な白い翼


『――彼は恐ろしい――(第七話「闇の咆哮」より)』



 酷い嵐だった。
 波は山のように高く、船は持ち上がられ、海面に叩きつけられた。
 風の唸る音や波の砕ける音、轟く雷鳴せいで、人の声は耳に届かない。もう何人も海に落ちていることだろう。
 綱をしっかりとつかみながら、ルドノフは考えていた。
 同じ綱をつかんでいるセパーダが彼に声をかける。口の動きから察するに、「大丈夫か」と言ったのだろう。ルドノフは「大丈夫」と答えた。
 船は木の葉のように舞っていた。
 この航路が危険だということはルドノフも承知していた。だが、一刻も早く北へ帰るには選り好みもしていられない。奴隷の烙印もあることから、そう簡単に船などには乗ることができなかった。
 この小さな船は金さえ払えば水夫として働くことを条件に乗船を許可してくれたのだ。
 船が傾いた。船員が一人、滑り落ちていく。雷が閃き、絶望に表情を凍りつかせた男とルドノフの目が合った。
 ルドノフは特に何の感情も抱かず、彼が波間に消えていくのを見守った。
 焦燥や不安、恐れすらなかった。海の様子とは対照的に、ルドノフの心は穏やかだった。
 これも羽のある神の思し召しなのだ。
 自分の魂は翼を与えられ、神の御座す天上の国へと飛び立つ。もう一度北の土を踏めなかったことは至極残念だが、仕方がない。
 稲妻が空を裂いた。
 圧倒的な力で船は容易く破壊されていく。ちぎられ、ばらばらになって散っていく。
 ルドノフは目を閉じ、羽のある神に祈りを捧げた。

 気づくと砂の上に横たわっていた。
 死んだのだろうか。しかしこう体が重くては、飛んでいくことなど到底無理だ。
 呻きながら体を起こす。どうやらまだ生きているらしい。
「ここはどこだ?」
 砂浜のすぐ向こうはなだらかな上り坂で、森がある。しかし木々は見たことがない種類で、どれも同じだった。高さも揃っている。どこか異様な光景だった。
 無風で、空は何事もなかったかのように晴れている。中天にある太陽は息をのむほど大きかったが、日射しはきつくなかった。
「セパーダ……」
 ルドノフは大切な連れのことを思い出した。友人であり、病を患っている気の毒なセパーダ。
 自分一人があの嵐の中、島に流れ着いて助かってしまったのだろうか。
「セパーダ!」
 海岸線をおぼつかぬ足取りで歩く。
 船の残骸らしい漂着物も見当たらなかったが、諦めたくはなかった。島を何周してでもさがし出すつもりだった。
 それにしても、ここは静かだ。不気味なほど静かだ。
 そしてルドノフは見つけた。
 自分と同じように、セパーダが浜に倒れていたのだ。大喜びで駆け寄って、抱き起こした。
 髪も髭ものび、セパーダはもう一見しただけでは僧侶には見えない。揺さぶると、眉が動いた。生きている。大きな怪我もないようだ。
「セパーダ、僕です。しっかりして下さい」
 だがセパーダは目覚めなかった。
「僕、飲み水をさがしてきます。森があるんです。きっと食べるものもありますよ。大丈夫。見つけてきます。あなたは絶対に助かりますよ」
 額に手を置くと、険しかったセパーダの表情が少し和らいだ。ほっとして微笑むと、ルドノフは森へ向かって歩き出した。
 それほど見通しの悪い森ではない。地面は傾斜しているが、下生えは短く、手入れがされているかのように歩きやすい。
 生えている木はどれも同じなので目印にはならなかった。何度も振り返って方向を確かめるしかない。
 期待していたような小川や木の実の類は見つからなかった。
 おかしな森だった。虫や獣の気配がない。花も咲いていない。何より静かすぎる。不自然だった。
 木のすけたところへ出た。広い円形の広場だ。中心には巨大な岩が一つある。
 疲れを感じていたルドノフは腰を下ろして休み、ちょっとした好奇心から岩へ近寄った。真っ黒な、炭のような色の岩だ。真上に陽があるので、それに焦がされたかのように見える。
 登ってみると、見晴らしがよかった。森の向こう、海まで見える。
 ルドノフはそこからの光景に戦慄した。
 壁だ。
 透き通ったとてつもなく大きな壁が島を囲んでいる。しかもそれはゆっくりと島の周りを回っている。
 空気の渦と言うべきだろうか。その中心に自分はいる。
 やはり自分は死んだのではないだろうかとルドノフは思った。この世にこんな島があるだろうか。
 自分もセパーダも助かったが、水も食料もなくては生きていけない。それにあの壁を突破して島から出ていくことは不可能だ。
 しかし絶望はしなかった。
 ルドノフは今まで、心の底から絶望したことなどなかった。
 岩からおりて膝をつき、両腕を交差させて肩に触れ、前かがみになる。知恵を与えてくれるようにと神に祈った。
 羽のある神。偉大なる全能の神。
 彼は父から教わった神に捧げる歌を口ずさんだ。今、目の前に降り立ち、助言を与えてくれることを願って。
 俯いていたルドノフの視界に、何かが入った。
 羽根だ。真っ白な羽根。
 地面に触れた途端、雪のように溶けてしまった。
 体が震えた。歓喜の震えだ。彼は確信していた。だから歌うのをやめ、ためらわず顔を上げた。
 降りてくる。
 羽を広げ、ゆっくりと岩の上に着地する。
 羽は眩いほど白く、一切の地上の穢れを退ける力があるように思われた。この世で最も清らかなものがあるとすれば、この羽だ。
「ようこそ、世界の中心へ」
 鳥の仮面をかぶった彼は朗らかに言った。厳かとは言い難い、気楽な口調だ。
「あなたは、来て下さったんですね。そうでしょう。羽のある神ですね」
 恍惚としてルドノフは涙を流した。あまりの感動に目が回り、失神してしまいそうだった。
「そういう曖昧な名前で呼ばれるのは好きじゃないな。私はサロイア。サロイア・ザロだ」
「サロイア。ああ、サロイア――」
 その名を口にする度に、決して損なわれることのない幸福感が胸に満ちていく。溢れる涙でサロイアの姿がにじんだ。
 ルドノフを見下ろしていたサロイアは、また音もなく、やや勿体ぶってルドノフのそばへと着地した。
「あんまり、泣くな。心配しなくてもいい。私が君を助けてやろう」
 サロイアはルドノフの涙を指で拭った。
「君の名前は」
「ルドノフです。ルドノフ・ハウエ」
「そうか。いい名前だが、私がもっといい名前を授けてやろう。カノクだ。君は今日からカノクと名乗るがいい」
 喜びに打ち震えるルドノフは、サロイアのためならこの身の全てを捧げてもいいと思っていた。今までの辛かった出来事は全て、この瞬間に出会うまでの試練だったのだ。
「カノク。私は君に決めたよ。君にだけ、教えてやろう」
「何を?」
 仮面の奥でサロイアが密かに笑う。
「真実だよ。よくお聞き。私が君だけに、この世界の真実を教えてやろう」



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