07


「蛇の警戒音です。この音を出す蛇に噛まれると、大抵の生き物は一時間と待たずに息絶えます。本能で、この音は危険だと知っているので、あの獣は我を取り戻し、逃げていったのです」
 そういうこともあるのか、とタムは感心した。全く、動物のことは動物に任せるに限る。
 安全だと判断したらしく、バーランガも遅れて下へ飛び降りてきた。
「よく追い払えたな、やるじゃないか」とバーランガはサンディを誉めた。
「あれが化け物なのか」
 タムは獣の去った方を見ながら言ったが、サンディが否定する。
「あれはただの鹿です」
「鹿? 牛だろう」
「いいえ、鹿です。首が低くて体も大きいので、牛のように見えますが、あれの角は枝分かれしているのです。もっと伸びれば、よくわかります。それに、牛と違って生え変わるのです。鹿は枝角で牛が洞角ですから、あれは鹿です」
 牛と鹿の違いなどこの際どうでもよかった。タムにとってはただただ「角のある恐ろしい獣」なのである。
「あんなに気の荒い鹿がいるとはな」
「元の性質もありますが、闘鹿なので、そのように訓練されているのです」
 するとバーランガが声をあげた。
「あれは、チャミカか」
 チャミカというのがあの鹿の名前らしい。闘牛や闘鶏などのように、同じ生き物同士で闘わせるのだ。大きな町などで、この鹿を闘わせる見せ物は人気があるそうだ。
「それにしてはおかしいな、チャミカは山にいない種類だぜ。野生は普通、平原にいるもんだ」
 バーランガが首を傾げた。
「チャミカを運んでいる最中に、逃げてしまったのでしょう。それがここに住み着いたのです。良いチャミカはどこでも買い手がつきますし、長い道程に多少の困難はあっても運ぶ者はいるでしょう」とサンディは言う。
 チャミカは様々な国に売られ、時には海を越えて別の大陸へと運ばれるそうだ。
 人を殺すこともあるというのだから、危ないところだったのだ。
 この騒動の元凶は鹿だったのかとタムは思ったが、バーランガは頷かない。
「チャミカは凶暴だが、人など食わない。鹿だから草食だ」
「鹿が殺して、犬か何かが食べたのだろう」
「それならそうだとわかるはずだ。第一、足跡の説明がつかない」
 何人かの化け物を見たという話の中には、ひょっとしたらチャミカという鹿と見間違えたという場合があったかもしれない。しかし、大きな生き物がいた痕跡があったのは事実で、これにチャミカは当てはまらない。鹿ではない何かがいるのだ、とバーランガは主張する。
 化け物の正体は鹿であってほしいと願うタムだったが(凶暴だったとしても、特殊な種類ではない草食動物の方がましだ)、このバーランガの見解を覆す考えは浮かばなかった。信じたくはないが、何かがいなければ辻褄が合わない。
「お前はどう思う」
 バーランガがサンディに意見を求める。サンディは俯きがちで黙っていたが、「わかりません」と呟いた。
 先ほどのようにバーランガが突如草むらの向こうへと視線を投じた。
「また何か来るぜ」
 声を低めて言うと、身を隠すために自分も別の草むらへと引っ込んで膝をつく。タムとサンディも急いでそれにならった。
 鹿が戻ってきたのか、それとも今度こそ化け物の登場か。どっちにしても、木の上に逃げなければならないだろう。化け物だとしたら、木もろとも倒されるかもしれないが――とにかく、木の上しかない。
 登れなくもないが、木登りは得意とは言えないタムは、息をつめ、怯えながら次の危難を想像し、身構えた。
 三人は姿勢を低くして、じっと様子をうかがっていた。バーランガとサンディはさすがに気配を消すのに慣れていて、身じろぎもしない。タムだけがかすかに動いて音を立てた。
 いつまでこうしていなければならないのか。足がしびれて、いざという瞬間に走り出せないではないか。タムは冷や汗をにじませた。
「獣ではありません。人の足音です」
 サンディが小声で言う。
「人?」
 バーランガは前方へ目を向けたまま、即座に鋭く聞き返した。
「歩き方が妙です。おそらく負傷しています」
 葉が揺れて、人影が二つ、草むらの奥に見え隠れする。こちらに気がついているのかは不明だが、向こうも周囲を警戒しながら移動しているようだった。
 と、バーランガがいきなり立ち上がった。
「お前ら、生きていたのか!」
 びくりと震え、人影が動きを止める。彼らはバーランガを見つけると、声をあげた。
「バーランガ……、頭!」
 バーランガは飛び出し、こたえた男達へと駆け寄った。現れたのは小汚い男二人で、一人がもう一人の肩を支えるようにして歩いていた。
「頭、あんた無事だったか」
 バーランガの手下で山賊の残党である男達は、頬がこけ、疲れきった様子だった。
「お前らこそ、死んだと思ったぞ。今までどうしていた?」
「崖から馬が落ちて死んじまって……こいつも足を怪我しちまったもんだから、満足に歩けなかったんでさぁ。休み休み、どうにかここを抜けようと進んできたわけで……。頭はきっと、化け物に食われてしまったんだと諦めていたが……」
「化け物を見たか?」
 バーランガの問いかけに、男達は同時に顔を青くして、眉根を寄せ、それぞれ視線を交わした。恐れのためか飛び出んばかりに目をひんむき、乾いた唇から途切れ途切れに言葉を発する。
「見た……俺達、見たよ……頭。見たんだ。それまで俺達は、化け物なんて嘘っぱちだって、笑ってたろう? だが、いたんだよ……。あれほどでっけぇ獣はみたことがねぇ……山のようなんだ。目が二つ、光っていた。蛇や鰐より無慈悲な目だよ……おっかねぇ! 俺の馬は、獣と目が合ったとたんに気が狂っちまって、泡をふいて、崖から飛び降りたんだ……。哀れな馬だぜ! しかし頭……ありゃあ、物の怪だ……。この世のものじゃねぇ、何たって、あれは、人に姿を変えるんだからな!」
「何だと?」
 疑わしげなバーランガに対し、手下は必死の形相で唾を飛ばして続けた。
「本当だ! 俺達は見たんだよ! 人が化け物に変わるのか、化け物が人に変わるのか、どっちかは知らねぇ。だが、あれはただ血に飢えた愚鈍な化け物ってわけじゃない。おっかねぇ、おっかねぇよ!」
 彼らの話に聞き入っていたタムは、サンディに腕を引っ張られてはっとした。目配せされて、見てみると、バーランガは手下との再会でうっかりしていたのか、タムの鞄を放り出していたのだ。



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