これを持って逃げ去るのか? すぐに気づかれて、激高したバーランガに背中をぐさりとやられたりはしないだろうか。
サンディは更に目顔で何かを訴えた。向こうから何かがやって来るのが見え、それが大きくて四つ脚で歩いているのでチャミカかと慌てたが、意外にも置いてきたバーランガの馬である。前に見たのと異なるのは、手綱や鐙が外されているところだ。
「逃げますよ、タム」
サンディは説明もせず、一人で先に走り出した。バーランガの馬はこちらに尻を向け、サンディが助走をつけて軽やかに跳びあがり、見事に裸馬にのぼってみせる。サンディと馬は意思の疎通ができているかのようだ。
「タム!」
馬上からサンディが呼ぶのと、山賊の手下が、事情はしかとわからないながらも敏感に異変に気づいて、「頭!」と注意をうながしたのはほぼ同時だった。
タムが思考する前に反射的に走り出したのと、バーランガが振り向いたのも同時だった。
タムはつまずきかけて走りながら鞄を拾う。所持品は何の破損もなく、持ち主の手元に戻る。
「待て!」
バーランガの制止する声が飛び、駆け出す気配をタムは背中で感じる。
馬の大きな尻を目標にして走りながら、タムはどうしたらいいかと悩む。木登りは下手だが、登り方は、まあ、わかる。しかし、馬になどろくろく乗ったことがないので、どうしたらいいかわからない。
「待て、この野郎!」
バーランガの怒声。
やっと追いついたタムがサンディに手をのばす。サンディも手をとるが、簡単に馬の背に上がることはできない。馬がサンディに指示されたかのように走りだし、タムと馬は並んで走って、丁度踏み台になりそうな横倒しの木を見つけると、タムは鞄を背負いながらそこに駆け上がって、思い切り跳んだ。
ずり落ちそうになりながらも、馬の背にしがみつくことに成功すると、サンディはタムの体勢になどお構いなしでいよいよ馬を走らせる。
馬の体をおおう毛は滑りやすく、つかめそうな部分もない。タムは馬が地面を蹴る度に体が浮かび、放り出されそうになった。
「おい、お前、覚えておけよ!」
間近まで迫っていた山賊の頭の姿はみるみるうちに遠ざかった。悔しげに歪む顔がタムの目に映る。
「絶対にまたお前達の前に現れるから、覚悟しておけ……」
タムは今にも振り落とされそうなのをどうにかたえて、サンディの後ろに落ち着いた。
タムのしがみつき方は曲芸に近く、落馬しなかったのは奇跡としか言いようがない。同じことを二度やれと言われても、上手くいきそうになかった。
バーランガにはもう馬がなく、聞いたところでは手下にも馬がないので、追いつかれる心配はさほどないだろう。
馬の上はかなり揺れた。乗り慣れていないタムにこの激しい揺れはつらく感じた。
「この馬はバーランガにこきつかわれて、不満を感じていたようなので、助けてやったのです。馬具が煩わしかったらしいので、外してやって、代わりに頼みごとをしました」
サンディが遅れてやってきたのは、馬との取引のためだったそうだ。バーランガなら自分の馬にもつらくあたるかもしれない。
最後に目にしたあの顔と、耳にしたあの言葉を思い出すと、タムは体が震えそうになった。恐ろしい山賊、恐ろしい化け物。もうこんな思いをするのはたくさんだ。
「結局化け物は、いるんだろうか」
タムは振り返りながら、独り言でも言うように呟いた。サンディの答えを期待したわけではない。タムにはサンディの後ろ頭しか見えなかった。
「いつか……」
サンディは前を向いたまま、馬の蹄の音にかき消されそうな声で言った。
「何もかもがはっきりする時が来るのでしょう。もしかしたら、それはごく一部のことに限られて、結局は最後まで多くの謎が残るのかもしれませんが。とにかく、私に今、わかることは――」
タムにはサンディの顔は見えない。ただ、静かな、憂いを帯びた声だけが耳に届くのだ。しかし明瞭に聞こえたわけではない。別のことを言ったのかもしれないが、タムには、こう聞こえた。
「我々は、私は、望まなくとも、決断を下さなくてはならないのです」
言っている意味はよく理解できなかった。タムは頭の中の何かが膨張して、圧迫されているような、強い不快感を覚えた。五感が麻痺して瞬時に遠のき、すぐに何事もなかったかのように元に戻る。
サンディは何の話をしているのだろう?
考えようとしているのに、タムの頭はそれを中止しようと働き、考えはまとまらずに霧散する。
サンディの背中はいつになく悲しそうで、落ちないようにとすがりつく手にタムは力をこめた。
いつか。
それはいつだろう。
タムは思考の霧の中に手をのばして、形ある何かをとらえようとしたが、全ては霧で――つかもうとする手すらも霧で、何一つ得られなかった。
[*前] | [次#]
しおりを挟む
- 59/59 -
戻る
[TOP]