言いたいことは山とあったが、ひとまずタムはのみこむことにした。こんなところで言い争いをするのは無意味だ。自分は大らかな主人なのだ。そう考えて気持ちを落ち着かせた。今回はこれ以上咎めないでいてやろう。
「サンディ、お前は象だというのに木登りができるのか」
「はい。象は木を登りませんが、人に化けた象は登ることができます」
気に入ったのか、彼は果実を何個か持っておりてきて、それをまたかじっている。
「どう思う、化け物の話を」
「何とも言いがたいですね。噂というのは尾ひれがつくものですし。気になるのなら、見に行ってみましょうか」
「冗談じゃない!」
タムは仰天した。わざわざ自分から危険に身を投ずるような愚行はしない。
「興味があるのかと思いましたが」
「興味なんてないよ」
茂みのそばに鞄を置き、中にあった本にタムはペンを走らせた。
――峠には化け物がいるそうだ。関わらないにこしたことはない――
それから本をしまって、道へと歩み出た。峠の方を気にしつつ、柔軟体操を始める。寝ている時に筋をちがえたのか、首が痛むのだ。肩を動かすと関節が鳴った。
「化け物は実際、存在するのだろうか。だとしたら、どんな化け物なのだろう」
タムが呟く。聞いているのかいないのか、サンディは指についた果実の汁をなめ、遠くへ視線を投げている。
「角があると言ったな。そいつは歯も頑丈なんだろう。木をなぎ倒すほどの、大きな、人を食う化け物か。そんなおぞましいものが、いるのだろうか」
その言葉にサンディが反応して、動きを止める。
時刻は陽の傾きからすると、昼と夕方の間だろう。すずやかな風が、葉やタムとサンディの髪を揺らしている。季節はいつだろう、夏の終わりの頃だろうか。
「タム」
サンディがタムを見つめ、そこに深刻そうな色を見つけたタムは尋ねた。
「どうした」
「鞄が、盗まれましたよ」
首もちぎれんばかりの勢いで振り返ると、置いたはずの場所に鞄は見あたらず、その鞄を片方の肩にかついだ何者かの背中がまさに遠ざかっていくところだった。
「おい! そういうことはな、そんなにゆっくりと報告するもんじゃない!」
タムは怒鳴って駆けだした。そちらが峠に至る道であるということは、もう念頭になかった。
早く鞄を取り戻さなくては。あれには、大事な本やペンが入っているのだ。
足音が追いかけてきているので、サンディも続いているというのがわかる。
あの従者も、もっと急いで教えてくれればいいものを。そうすれば、数歩でも盗人との距離を縮めることができたというのに。
道は左へゆるやかに曲がっていて、盗人の姿は見えない。
追いつかなくては。あれは大切なものなのだ。
あの鞄――そうだ、リュックサックだ――白の――白のリュックサック――
そう、あれは白いリュックサックだった。
まるでそのことを今初めて知ったような、奇妙な感覚だった。前にも幾度か感じたようだが、はっきりしない。
ずっと知っていたはずなのだ。当然だ。自分の持ち物なのだから、「最初から」知っている。
それならば、この違和感は何だろう。
突然、気分が悪くなった。微かに耳鳴りが聞こえ、目の前に広がる景色が鮮やかさを失う。意識すら遠のきそうになった。
その時、強い力で肩をつかまれ、体の向きをぐるりと強引に変えられ、視界が回った。太くて汗ばんだものが容赦なく首をしめあげる。今度は物理的な要因で意識が遠のいた。
「おい、お前、動くな」
背後にぴったりとついた誰か、タムをしめあげている誰かが、追いかけてきたサンディに言い放った。タムとサンディは向かい合う形になっている。
サンディは立ち止まった。誰かは右腕でタムの首をしめ、左腕をサンディへ向けてのばしていた。誰かの左腕がタムの視野に入っている。浅黒い男の腕で、古傷が多く、太くてたくましい。無骨な手に握られているのは、反り返った刃物だった。相当つかいこんでいるのか、刃こぼれが目立つ。それでもまだ、肉を切ったり、脅しに使うのには十分だろう。
サンディは男とまだ離れていて、刀も届かない位置にいるからか、落ち着いていた。
いや、彼は常に落ち着いている。ひょっとしてタムが男に刀でばっさりと真っ二つにされたとしても、動じないのかもしれない。
演技でもいいから、もっと取り乱したらどうだろう。
サンディが落ち着きを失ったところで事態は好転しないのだが、タムは憤りを覚えた。
「だ、だ、誰だ!」
サンディが男に対して何ら行動を見せる気配がないので、タムが男へ声をかける。すると男は首をしめる力を強めてきた。
殺される。
タムの心は絶望感に満たされた。
「彼は鞄を盗んだ男です」
サンディは淡々と言った。
「俺は山賊だ。バーランガって名でなぁ」
男の声は低く割れていて、凄みがあった。
「この近辺でよく仕事をしていたんだ。聞いたことはねえか?」
そう言えば、馬に乗った男が「何も出るのは化け物だけとは限らないし」と言っていた。山賊も現れる、ということだったのだろうか。
「従者か?」
バーランガと名乗る山賊が尋ねて、サンディが「はい」と答えた。
バーランガは刀をタムの顎の下にあてた。タムはのけぞった。膝に力が入らないし、認めたくはないが震えていた。男の胸ぐらによしかからなければ立っていられないかもしれない。
ここで殺されてしまうのか。
鞄を盗られて、命を奪われて。それを見届けるのは非情な従者だけ。私は不幸な男だ。何だってこんなに不幸なのだ。
不意に涙が出そうになったが、歯を食いしばって耐える。ここで泣けば惨めさが増すだけだ。
「いいか、従者の命が惜しくば、言うことを聞け!」
バーランガが怒鳴った。
元々周囲は騒がしかったわけではないが、一瞬、静けさに包まれる。
聞き違いだろうか? いや、確かに言った。しかも、サンディに向かって。
ということは――
「従者はそいつだ! 私ではない! そいつが私の従者だ!」
タムは憤慨し、バーランガに負けないくらいの声で怒鳴り、地面を蹴飛ばした。
何たる侮辱。誰が従者だ。
それでなくとも普段から、どちらがどちらに従っているのかわからないことを気にしているというのに。
酷い。酷すぎる。あんまりだ。私の何がいけないというのだ。私が何をした。私は不幸な男だ。何だってこんなに不幸なのだ。
我知らずそんな言葉が口から飛び出していたようで、男とサンディは沈黙してそれを聞いていた。縮みあがっていたタムだったが、恐怖よりも怒りが勝り、ここぞとばかりに不満をぶちまけた。
「まあまあ」
サンディが宥めにかかる。
「興奮しないで下さい、タム」
そしてバーランガに言った。
「私が彼の付き人なのです。彼が主人です」
タムの背後から「なんだあ?」と気の抜けた声がする。
「見た目が地味なもんだから、てっきり従者はこっちかと思ったぜ」
首に刃物をあてられていることも忘れ、タムはもがいた。勇を鼓したというより、頭に血がのぼっていたせいで、大胆な行動に出てしまったのだ。
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