化け物の噂:01


 音が聞こえる。何の音だろう。それに加えて、はっきりとした振動も伝わってきた。
 まだ目を閉じているが、感触からすると、自分は今、寝転がっているらしく、頬の下には地面があった。顔を横にして、地面に片耳をつけている格好だ。あまり寝心地がいいものではないな、と思いながら少し体を動かした。
 ああ、そうだ。この音は、この律動は、蹄の音だ。馬が駆けて来るのだ。
 馬が――
「危ない! 危ないぞ!」
 危険を知らせる鋭い声が耳に届く。
 急激に覚醒し、世界が一気に目から飛び込んできた。顔に砂をつけたまま、タムはがばりと身を起こす。
 そこは両側に木々が並ぶ狭い道の真ん中だった。そして、人を乗せた馬がもうすぐそこまで迫ってきている。
 何を考えるでもなく、タムは反射的に横へとびのき、すんでのことで踏みつけられるのを免れた。
 馬に乗っているのは中年の男で、少し通り過ぎたところで手綱を引いて馬の歩みを緩めると、方向を変えてタムのところへ引き返してきた。
 タムの前までやってきた馬は鼻息が荒く、ぶるぶると首を振った。タムは、馬というのはあれほど軽やかに走るが、間近で見ると意外なほど大きく感じるものだ、と思った。勿論、象に比べれば小さいが、下から見上げると相当迫力がある。
 脚は細いが強靱で、蹄はいかにも硬そうだ。この動物の立派な武器であることが知れる。
 これに、踏みつけられるところだったのだ。
「危なかったなぁ。何だってあんなところで寝ていたんだ。具合でも悪くて倒れていたのか? 怪我はないだろうな」
 今になってタムの心臓は激しく鳴っている。平気だと答え、顔についていた砂をはらった。
「何か転がっていると思ったが、人だったとはな。こいつは速く走るんだが、止まるのは下手でね、困っているんだ」
 立ち上がったタムに馬上の男は笑って言い、馬の首を軽く叩いている。
「本当に、こんなところで何をしていたんだ? もしかして――」
 焦げ茶色の毛が艶やかで、上品ではないものの手入れが行き届いた健康そうなその馬は、早く走り出したいと言わんばかりに頭を打ち振り、足を踏みならした。随分気性が荒い馬のようだ。
「化け物の討伐に来た人かい?」
 男が尋ねた。
 荷は積んであるが量は少なく、男も軽装なので旅人ではないようだ。
「到着まであと三日くらいかかると聞いたんだけどな。それで、あんた一人かい? あの化け物をどうやって倒そうと――」
「違う!」
 タムは自分でもぎょっとするような大声で否定し、それに男が怯んだ。
「私は旅の者で、断じて何かを倒しに来たのではない! 人違いだ!」
 以前人違いから痛い目にあったタムは、そのことから教訓を得ていた。今回は「化け物の討伐」だ。勘違いされれば大いなる災難がこの身にふりかかるのは目に見えている。
 いくら目覚めたばかりで馬に踏まれそうになった直後であっても、この程度のことなら頭は回る。まず大切なのは、相手の話を遮ってでもきっぱりと主張することだ。
「そうか。いや、失礼」
 男は頬を掻いている。誤解されるのは免れたようで、タムはひとまず安心した。何だかよくわからない化け物退治に行かされなくても済みそうだ。
 そこでやっと「化け物」という言葉が頭に浸透してきた。不吉な言葉の雰囲気にとっさに拒否反応が出たが、己に危難が及ばないことを知って落ち着いてみると、わいてくるのは好奇心だった。
「化け物とは何ですか?」
 タムの問いに男は目を丸くした。
「知らないのかい? ここらで知らない奴はいないよ。よそから来たんだな、あんた」
 男は背後を気にしてから、ちょっと身を乗り出した。
「この先の峠にはな、化け物が出るんだよ。だからみんな怖がって、この道を通りたがらない。だがどうしても通らなければならない時は、俺みたいに馬に跨って、一気に駆け抜けるしかない。そうすれば大丈夫だと言われている。これもあてにはならんがね。今のところは、馬に乗った奴が襲われたって例はないんだ。歩くのは駄目だ」
「襲われた人がいるんですか」
「どのくらい前だったか……前の新月の晩かな。見つかったんだよ」
 男は警戒するかのように視線を周囲に走らせ、声を落とした。しかし聞く者と言えば、タムをのぞけば馬しかいない。
「何が見つかったって?」
「死体だよ。二人の人間が死んでいた。体はほとんど食われていたそうだ」
 タムは眉をひそめた。
「狼とか。そんな獣の仕業でしょう」
「いや、いや」
 男が首を振る。
「現場を見た奴の話によると、そうじゃないらしい。木がなぎ倒されていたし、大きな足跡が残っていたんだとさ。それでも最初はやっぱり、動物だろうとみんな思っていた。しかしな、あの峠を通った何人もの奴が大きな化け物に追いかけられたと言ってるんだ。目つきは鋭く、角があるって話だよ。おまけに俊足だそうだ」
 恐ろしいだろう、と男が肩をすくめる。本当に恐れているようでもあり、だがどこか、面白がっているようでもある。
「俺は幸い、遭遇しなかったよ。こいつの足にはさすがの化け物も追いつけないだろうから、心配はしていなかったけどな」
 男が愛情をこめて首をさすると、馬は誇らしげに鼻を鳴らした。
「とにかく、あんたも近づかない方がいい。新たな犠牲者になりたくなかったらな。何も出るのは化け物だけとは限らないし」
 男はそう忠告すると、馬の手綱を握りなおした。かけ声をかけ、馬が颯爽と走り出す。尾とたてがみが美しくなびいていた。
 残されたタムは、そっと峠へと続く道を見た。そこは異界の入り口に見え、吹きつける風すらまがまがしく感じられた。タムの想像力は、頭の中に世にも恐ろしい異形の怪物の姿を作り上げていた。はっきりとはしないが、角があり、鋭い目つきの漠然とした化け物である。タムの想像力ではこれが限界だ。
 勝手に想像して、勝手に怖がるのは損である。それを追い出すために頭を振るが、なかなか消えそうにない。
 ぶるぶると振り続けていると、頭上から不自然に葉の揺れる音がした。見上げてみると、サンディの姿が確認できた。手にしている果実らしきものをかじっていて、視線はこちらに向いていないものの、タムがいることは気がついているようだ。
「サンディ、そこで何をしている」
 サンディは手のものをちょっと掲げた。
「これを食べています。タムもどうですか」
 放り投げられたものを受け取りそこね、落としてしまった。赤くて丸いその果実を拾う。表面はうっすら産毛のようなものに包まれ、香りといい、桃に似ている。桃をもっと小ぶりにしたような果実だ。皮は薄そうなのでむかずに食べてみた。酸味が強く、まだ熟していないようだが、まあまあうまい。
「お前、先刻の話は聞こえていなかっただろうな」
「いいえ。私は象なので、耳がよく聞こえるのです。峠に出る化け物の話でしょう」
「そうか。なら耳のいいお前は、近づいてくる馬の蹄の音も聞こえただろうな。私は大変な事故に遭うところだった。どうして助けなかったんだ」
 サンディは実を丸ごと口に入れ、種だけを木の下に吐き出した。それから面倒そうにタムを見下ろす。
「タムのいびきは耳にしなかったので、のんきに馬の行く手に寝ていることを知らなかったのです。ご無事で何よりでしたね」
 微塵も心のこもらない調子で言うと、木からおりてきた。



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