「すごい、すごい」
何度も言ってから少年は前を向き、「にいとねえにも見せてやりたいな」と呟いた。誰に言うでもない、ほんの小さな声の独り言だった。だがそれは、タムの耳にもサンディの耳にも届いていた。
降りてからも、サンディは少年と遊ぶのに付き合ってやった。鼻にぶら下がった少年を軽々持ち上げたり、手加減しながら押し合いをしたりする。
「象は何を食べるんだろう」と少年が言えば、サンディは草をむしって食べて見せた。少年が差し出した小さな葉っぱを長い鼻の先で受け取って口に運ぶ。
「器用な鼻だねえ」
大きな動物の意外な器用さに少年は感心しているようだった。
そうしてかなりの時間が過ぎた。赤く染まりつつある空を見て「帰らなきゃ」と少年は言った。
「おかあが心配するからな。何もできないけど、帰らなくちゃ。せめて、悪魔を追い払う方法を知っていたらな」
肩を落とす少年を見て、タムは辛くなった。
きっと治るよ、と言ってやりたいところだが、言えない自分がいる。
「お兄さん達はこれからどうするの」
「そうだな、これといって予定はないが、川上に向かって行こうと思ってるんだ」
「こっちには、もう来ないの?」
「ううん……」
弱ってしまった。頭の後ろを掻いているタムを見て、少年はさみしそうな笑みを浮かべる。
「でも、ま、来ない方がいいよ。病気が流行っているからね。うつったら大変だ」
そんな大人びた言葉を聞くと、ますます辛い。しかしため息をつくのはこらえた。嘆息したいのはこの子の方なのだから。
「俺は明日もここへ来るから、会えたらいいなと思ったんだけど……」
少年はそこできょとんとして、首をめぐらせた。
「象がいないよ」
言われてみれば、ついさっきまでいたはずのサンディが姿を消している。あんな巨体だ。動いていれば何かしら音が聞こえるはずだし、姿も見えるだろう。ということは、人の姿になったのか。
タムの思った通り、人の姿のサンディが木立の奥から現れた。
「象はどこへ行ったのさ」と少年。
「ああ……ええと……散歩に出かけたよ」
サンディの正体が象であることを隠す必要もないのだが、ただの象だと思わせてやりたかった。
「突然現れたり、消えたりするね。お兄さんもしかして、妖術を使ったわけじゃないよね」
少年が訝しげに言う。
「この人にそんな大層なことはできません」
サンディがタムの横に立った。
「悪かったな」
タムは従者を睨んだ。そんな視線も気にとめず、サンディは腰をおとして少年と目線を合わせた。何かを握っているらしい手をそっと前に出す。少年がそれに注目すると、ゆっくり手を開いた。
そこにあったのは、小さな白い粒だった。
「これは?」
少年の問いに、サンディが答える。
「種です。これは白い花の種。魔除けに使われます」
どういうつもりなのかわからず、タムは黙って見守ることにした。
「これをあなたの母親に食べさせて下さい。食欲がないでしょうが、このくらいの大きさのものなら食べられるでしょう」
「魔除け……」
少年は口の中で呟いた。
「それを食べたら、おかあは治る?」
間があった。少年とサンディは見つめ合っている。
サンディは少年の真摯な眼差しから目をそらさなかった。
「はい。きっと」
きっぱりとした口調だった。
「その前にまじないをかけねばなりません」
種をのせた手にもう一方の手を重ねると、サンディはまぶたを閉じた。一呼吸する。それから目を開けて手もどけた。
タムは首を傾げた。手を重ねる前と後で、種の色が変化しているように見えたからだ。わすかだが、より白くなった。
「どうぞ」
種を受け取った少年は大事そうに手で包み、微笑して礼を言った。
「ありがとう。今日のこと、俺忘れないよ。じゃあね!」
少年が駆け出した。
その背中が見えなくなっても、タムとサンディは暫くの間立ち尽くしていた。少年と言葉を交わした余韻が、胸に残っている。
この後彼はどうなるだろう。彼の母の容態はどのくらい悪いのだろう。
嫌でも、悪い未来を予想してしまう。
何もしてやれないくせに彼のことを気にかけ、また、気にかけていながら追いかけようとしない自分が酷く卑怯に思えた。
「行きましょうか」
サンディにうながされ、二人は川上の方へ歩き出した。あの少年とは、反対の方へ。
互いに黙って歩くことはよくあるのだが、今は沈黙がやけに重苦しかった。一見平然としているがサンディも少年のことで心を痛めているだろう。
二人は重い沈黙を共有していた。
数歩先を歩いていたサンディが、唐突に口を開いた。
「後悔しています」
「何が」
尋ねながらも、タムは何のことかほぼ承知していた。
「あんなことを言って、彼に種を渡したことです」
やはりそうだった。
「あの種は何なんだ」
「ただの花の種ですよ。栄養はありますが、あくまでただの種です」
以前出会った羊飼いが白い花の種は魔除けに使われると言ったのを覚えていたらしい。サンディは彼らしい平淡な口調で心情を吐露した。
「あの子に気休めを言ってしまったことを悔いています。あんなことで、救われるはずもないのに」
「でも、種をもらって笑っていたじゃないか」
「幼いながらも賢そうな子供でした。あの子は気休めだとわかっていますよ」
この象は落ち込んでいるのかもしれない。タムは長いこと考えてから、従者を励ました。
「いいんじゃないか、気休めであっても」
話しながらも二人は、相手を見るでもなく前を向いたままである。
「治るかと聞かれて、はい、と答えてしまいました。嘘になります」
「きっと、と言ったじゃないか。お前はあの子の母親の病が治ってほしいと思ったんだろう? 私は、良かったと思う。あの子に想いは伝わっただろうし、悪いことではないよ」
自分は発言の責任を負うことを恐れて、例え気休めでも少年に声をかけてやれなかった。根拠なく楽観的なことを述べて後々少年を傷つけることを心配したのと同時に、そのことで彼に恨まれるのを恐れていたのだ。
「タム」
サンディは歩みを止めた。「私を慰めようとしているのですか」
そうだと言うのも気恥しく、否定もできず、タムは咳ばらいをした。
「けれども、珍しいな」
「何がですか」
「お前があの子を気にかけてやったことだ。滅多にないじゃないか」
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