そうして小さくなっても、悲愴感は伝わってこない。細い体の割に弱々しさを感じさせなかった。
「同感です」
慰めるようにセパーダは言った。
彼の歳がいくつくらいなのか、タムには見当がつかなかった。顔が火に照らされ、肉のそげおちた頬の部分は陰になっている。
「私などはダバで武士の家に生まれましたが、それでも幸せな生活を送ることはできませんでした」
「ダバ?」
タムが尋ねる。
「ダバはこの辺りで最も広く、強大な力を持つ国です」サンディが説明する。
「ダバをご存知ないのですか」
やや驚いてセパーダが声をあげた。タムは引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
「他にこの辺りにはダバと同盟を結んでいる国が一つと、あまり良くない関係の小さな国が一つあります。近頃、ダバとその小さな国の関係は悪化する一途で、いずれ戦になるだろうと囁かれています」
ダバが小さな国と戦い、勝利をおさめることは現状からいってとても容易いのだとサンディはタムに教えた。
「小さな国は、勝ち目のない戦を避けようと努力しないのだろうか」
タムの疑問に答えたのはセパーダだ。
「ほとんどダバの属国のような国なんですがね。自尊心とでも言いますか、これ以上ダバのご機嫌とりをするのが我慢ならなくなったのでしょう。あそこは元々誇り高き砂漠の民、カキャラド族が多い。一族の誇りを守る為――いや、それとも」
セパーダは悲しげな笑みを見せた。「ただ好戦的なだけかもしれませんな。戦に理由など、大して必要でないのかもしれない」
場をしばし沈黙が支配した後、ルドノフがさっと顔を上げた。
「それにしてもダバを知らなかっただなんて変ですね。一度も聞いたことがなかったんですか、タム」
タムは返事に窮した。
「我々は遠くの国からやってきたばかりなのです。それに主人は世事にうといので」
サンディは尋ねてきたルドノフにではなく、セパーダに向かって答えた。
「妙なお人だ」とルドノフが言い、タムは首を縮めた。
「どちらからおいでになったのですか」
今度はセパーダだ。タムに向けられたらしいこの問いに、サンディは素早く答えた。
「ルムーヌです」
「ほお、帝国から」
タムはきょろきょろと目を動かした。覚えがあるようなないような名前だ。
「今や帝国は敵なしと聞きますな。いずれ領土拡大の為に南下してくるのかもしれない」
とりあえずこの発言から、ルムーヌという国はダバやその周辺の国々より北にあることだけはわかった。
それに対しサンディは、帝国はあまりにここから離れていて、様々な問題を抱えていることからここまでその手がのびてくることはないだろうという見解をのべた。
対外的には無敵に見えても、内政には不安要素が多くあるらしい。公共事業――特に娯楽施設の建築などに金をつぎこみ、財政がかなり逼迫した時期もあったそうだ。
この手の話は興味が薄いタムは聞くともなく聞いていたが、サンディの言葉でようやくルムーヌという国がどこであるか思い出した。
「くだらない闘技場での見世物など、大層金がかかったらしいですから。そうですね、タム」
タムが命がけの試合を行ったあの町のことだ。
俄かに元気を取り戻したタムは、激しく首を上下に動かした。
それにしても、主人は世事にうとい、とサンディが言ったのはあながち間違いではない。地理や歴史、政治のことにはあまり関心が持てなかったのだ。
――そう。そうだ。
――昔から。昔から、そうだった。
――文字は好きだった。
「お聞きしてもいいでしょうか」
ルドノフがセパーダに話しかけた。
「先程武士の家に生まれたとおっしゃっていましたが、どうして僧侶になられたのですか」
そうですねえ、と間延びした声を出すと、セパーダは自分の頭を撫でた。
「武士には向いていなかったのです。武芸が得意でもなかった。お恥ずかしい話ですが、私は戦が怖い。軍事にたずさわりたいと思ったこともない」
私は迷いの多い人間です、と彼は告白した。「あらゆる悩みをたち切りたく、出家しました」
だが何一つたち切れていないということは、彼の表情から読みとることができた。
ダバには高名な僧侶がいるらしく、セパーダは説法を聞きに行った。それでも悩みが消えることはなかったそうだ。
彼は今のところ、心に厚くたれこめる雲のような悩みを押し流す術を見つけられずにいた。そしてそれは更なる悩みとなってのしかかってくる。
「身体は健やかでも、心をわずらえば苦しくなるものです。私は毎日、誰かに首でもしめられているかのように辛い。息をするのも苦しいのです」
「お坊さんは皆、悩みなどないと思っていましたよ。いつもすました顔をしているから」
ルドノフはセパーダの話に興味を示した。丸めていた背中を伸ばしている。
「とんでもない。欲望の炎に身を焦がされぬよう、苦労している僧は多い」
「あなたも?」
「いえ。私はそのことではそう苦労していません。別に悩みがあるのです」
タムはセパーダの目を見た。彼の顔は苦悩に歪んでいたものの、目は澄んでいるように見えた。穏やかとも言える。しかしそう見えるのはこの時だけなのかもしれない。
泥が沈んでいないとも限らなかった。かき乱すものがあれば、一気に濁ってしまうのだ。
サンディが唐突に席を外した。特に理由も告げず、焚き火から離れていく。
いつしか辺りはすっかり暗くなっていた。だがサンディの白銀の髪は闇に溶け込むこともなく、少し離れたところに腰を下ろしたのがわかった。
セパーダは話を続け、ルドノフは質問をしながら耳を傾け続けた。
タムには、ルドノフがこれほどまでにセパーダの話を真剣に聞いていることが不思議だった。しかも彼をそうさせるのは、単なる好奇心からくるものだけではないらしいのだ。
タムは、ダバの山で名高い僧侶に聞いた説法の内容を話しているセパーダよりもルドノフのことが気になり、彼を観察した。
初めは、その不幸な若者の目の奥に揺らいでいるのが何なのか見当もつかなかった。人の感情というのは曖昧で、複雑なものだ。はっきりしないのが当然かもしれない。
だが、ある瞬間タムにはわかった。
それまで判然としなかったのはその感情がぼんやりとしたものだったからではなく、あまりに場違いだったからだ。
揺らいでいたのは怒りだった。そしてそれは、やつれた僧侶へ直接向けられたものではなかった。無力な僧侶の背後にある、もっと大きなものへ向けられている。
子供にパンを盗まれたパン屋が子供ではなくその親に怒りをぶつける、それに似た感じだった。
「皆さん、お食事はまだでしょう」
セパーダの声にはっとし、タムはルドノフから目を話した。
「私の食事はもっぱら托鉢でいただいたものばかりで……」
差し出した木をくりぬいてつくられた器には、小さな豆のようなものがたくさん入っていたが、とても一人の腹を満たせるような量ではない。
「あなたは?」
タムはセパーダに尋ねた。
「私は少し食べました」
「では、ルドノフにやって下さい。私は一食くらい抜いたって平気ですから」
自分も腹が減っていないわけではなかったが、ルドノフがかなりの空腹を抱えているのは明らかだった。ルドノフは礼を言って豆を食べた。
ルドノフはまだ話を聞きたがり、セパーダが話し始める。
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