02


 だが老人の頬は膨らんだままで、口に含んだものを飲み込もうとはしなかった。そして彼はそのまま近づいてくる。
 まさか。
 その不安は現実のものとなった。
 老人はタムの顎を素早くつかむと、口の中のものを一気に顔へと吹きつけた。
 悪夢だ。タムは心の中で呟いた。顔からしたたる水を手で拭う。
「若者よ。お前は以前、足の骨を折ったことがあるだろう!」
 私には全てが見えるのだ、と老人は声高に言った。
「いいえ、骨を折ったことはありません」
「それならばこれより先、いつかどこかで骨を折るだろう。用心せよ」
 随分と曖昧な助言である。
「あの、もう結構ですので……」
「口ごたえをするな!」
 老人は激高し、執拗にタムの頭を枝で叩いた。
「これより先、五年以内にお前の妹が不幸に遭う」
「妹はいません」
「ならば弟だ」
「弟もいません」
「兄だ」
「兄もいません」
「姉は?」
「いません」
「そうだろう、私は全てを見通している。お前に兄弟がいないことは最初からわかっていた!」
 老人は枝を地面に叩きつけた。
 こんなやりとりが数時間にも及んだ。その間ずっと正座をさせられていたタムは占いが終わる頃になると心身ともに疲れ切っていた。
 散らかしたものを拾い集めると老人は小屋へと片づけて、機嫌良く去って行った。
「不運でしたね、タム」
 一部始終を見ていたサンディが声をかけてきた。占いの老人はここに住んでいるわけではなくて、この小屋は占いの前に精神を統一させる為の場所らしい。
「彼は占い好きの老人で、普段は穏やかな性格なのですが、占いを始めるとああして人が変わってしまうのです。以前一度占いで翌日の天気を当てたそうで、それから自身に占いの才があると思い込んでいるそうです。それ以来彼の占いが当たったことは一度もありませんが」
「そうだろうな」
 サンディはタムより先に村へ足を運んだことがあるようなので、全てを知っていたのだろう。もう疲労感しかないタムは、そのことでサンディを責めたりはしなかった。責める言葉を考えるのも億劫なくらい、疲れていた。
 また川のところで顔を洗っていると、小さな少年がタムの服を引っ張ってきた。
「お兄さんは占ってもらうのが好きなのかい?」
「好きでも嫌いでもなかったが、先刻のことで嫌いになりそうだよ」
 ため息まじりにタムは答えた。
「今度はもっといい占い師に占ってもらったらどうかな」
「占いはもういいよ」
 相手が子供ということもありタムは強気で断ったが、子供の方も引き下がろうとしなかった。
「あの人は本物の占い師だから安心しなよ。占ってもらいなよ」
「いいと言うのに。占いはもうたくさんだ。さっきだって、占い師に会ってみてはとあの男に言われ、ついて行ったらこのざまだ」
「じいさまのことは仕方がないよ。じいさまの占いは当たらない。みんなじいさまから逃げるのに必死なんだ。じいさまにつかまってしまったら、別の誰かを連れて来るしかないだろう? あんたみたいな旅人は、身代わりにうってつけなのさ。まあとにかく、俺についてきなよ」
 子供は歩き出した。
 誰がついていくものか。旅人を身代わりにするような村の者が言うことに、耳など傾ける気が起きない。タムはそっぽを向いた。
 すると、サンディが目の前を通り過ぎて行く。彼はあの子供についていくようだ。自分もあとを追わなければ、ここに一人で残されることになる。
 心細さに負けて、タムも嫌々ついていくことにした。普通は主人の行動に従者が従うものだが、どうも自分とサンディの場合、従者の行動に主人が従うようになってきているようだった。
「今度は耄碌したばあさんじゃないだろうな」
 タムは歩きながら呟いた。
 子供はタムとサンディに名を尋ねてきた。タムは答え、子供にも聞き返した。子供は「ドゥニ・ファオエン」と名乗った。
「ファオエンだって?」
 その名を聞いて思い出したのは、四素人赤い火の人、ファオエンだ。
「この村に住む者はみんな、生まれた時に一神四神の名を授かるんだ。クスバの名を授かった人は頑強な力持ちに、ファオエンの名を授かった人は明るく陽気に育つんだ」
 そうなってほしい、との思いで一神四神の名がつけられるのだろう。サンディによると、この村は一神四神への信仰が厚いらしい。
 他に、イジャの名を授かった者は聡明に、サヌーイの名を授かった者は健やかに育つと言われている。
 それならばあの老人が授かったのはクスバの名だろう、とタムは考えた。ドゥニ・ファオエンという子供に確認してみると、やはりそうだった。あの歳であれほど踊る体力があるのだ。クスバの名が相応しい。
「ルトの名を授かる者は、どう育つんだ」
「ルトの名を授かった者は、村でも一人しかいないんだ。特別な力を持った者だけが、その名を授かる」
 話をしているうちに目的の場所へ着いたらしく、ドゥニは立ち止まった。
 他の家々が並ぶところよりも、やや離れた場所だ。茅葺き屋根の家が二つ並んでいる。左の家は小さく、人が一人住むのがやっとという大きさだ。占い師の老人がいた小屋までとはいかないが、質素である。
「ダーニャ、お客だよ」
 ドゥニはその左の家の中へ声をかけた。
「それじゃあ、俺は帰るよ」とドゥニ。
「逃げるのか」
 タムはドゥニの手をつかんだ。ドゥニが振り払う。
「そうじゃないよ。ダーニャは一度にたくさんの人とは会わないんだ。疲れるんだよ」
 本当かどうかはわからないが、タムはドゥニを帰してやることにした。
 二人きりになって、タムは声を落としてサンディに尋ねてみた。
「お前はダーニャとかいう奴に会ったことがあるのか」
「いいえ。話で聞いただけですが、ダーニャというのは若い女性のようですよ」
 若い女性。これは意外だった。若くてしかも女なら、奇声をあげたりしないだろうし、枝で叩かれる心配もしなくていいだろう。
 とりあえずダーニャという女に会ってみることにした。
 おそるおそる、まるで盗人のように肩をすくめて中へと入る。狭い家の中は甘ったるい香りに満たされていた。部屋の隅にはいくつかの袋や布が積まれていて、日用の品と思われる器なども重なっていた。
 真ん中には茣蓙が敷かれ、そこに女が一人座っている。
 黒い髪は一部分だけ結っているがとても長く、床につき曲線を描いていた。顔色が悪く、少し痩せすぎていて健康的ではない娘だ。歳は、十八か十九といったところだろう。
 額にある、塗料で描かれた小さな模様はあの老人の姿と重なり嫌な印象を持ったが、タムがはっとしたのはそのことではなかった。
 彼女は真顔で二人を迎えたが、目が合うと顎を引き、薄っすらと微笑んだ。その瞳には普通の娘には似つかわしくない、深い知性と途方もないさみしさを宿していたのだ。
 全てを見透かすような視線に射すくめられ、タムはその場で動けなくなってしまった。



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