07


「そうだ、象だよ!」
 目を見開いてタムが立ち上がる。そして松の実をつかみ、床や壁に投げつけた。グティウスがやめさせようとする。
「あいつは元の姿に戻れば、簡単に逃げ出せるんだ。サンディの奴、自力で脱出できるはずなのに、そうしないのはどうしてだ」
「何を言っているのかよくわからないが、あいつが捕まっている限り、お前は安全だろう。だから逃げないんじゃないか」
「馬鹿だな、サンディは……」
 タムは椅子から落ちたかと思うと、いびきをかき始めた。


 翌朝、タムとグティウスは、ある行商人を待ち伏せしていた。毎日のようにカスカトゥス邸を出入りしている行商人だ。殺されたギレニソについて知っていることはないかと尋ねたが、行商人は知らないと答えた。
 その後もどこへ行っても無駄足だった。犯人どころか、ギレニソを知る者がいない。何の進展もなく、また一日を終えてしまった。
 その翌日、タムはグティウスの家の前で腰を下ろし、道行く人々を見つめていた。グティウスはパンを買いに出かけている。明日は闘技場で試合があるせいか、市民は俄かに浮足立っていた。
 皆殺し合いを見て、憂さを晴らすのか。
 陰鬱とした気分になった。おかしな世の中だ。
「お留守かしら」
 女の声がした。グティウスの部屋を、果物を持った女性がのぞいている。
「グティウスならパンを買いに出て行ってますよ」
「そうなの。あなたは?」
「グティウスの知人です」
 人懐こい笑顔を浮かべた女性は、「あら、そう」と言って部屋の中に入っていく。タムが追いかけた。
「そういうあなたはどなたです」
「隣に住んでいて、よくお世話になっているの。果物を届けに来たのよ」
 どうせ知らないだろうと思ったが、一応ギレニソのことを聞いてみた。やはり、知らないようだった。だがギレニソの主人であるカスカトゥスの名には反応した。
「あの豚」と言いかけ、手で口を押さえる。
「奴隷が殺されたと聞いたけど、あの家の者だったなんて」
 貰った果物をかじりながら、タムはサンディのことを考えていた。私が大変な時に、よく果物など食べられますね。そんな従者の声が聞こえてくるような気がした。
 女性がこちらに視線を送っている。話したいことがあるようだ。聞かれなければ話すことではないか、しかし、話したいので聞いてほしい。そういう顔をしている。話の流れからすると、カスカトゥスのことだろうか。
「カスカトゥスのことで、何かご存知ですか」
 待ってましたと言わんばかりに女性が口を開く。
「あの人の奥さんの話よ」
 カスカトゥスの妻が邸内の誰かと浮気をしている、とのことだった。女性というのは本当に、噂好きだ。
 もしかすると、こういうことではないのか。カスカトゥスの妻と浮気をしていたのは、ギレニソだったのだ。それを知ったカスカトゥスが激高し、闘技場でギレニソを殺した。これで辻褄が合うのではないか。タムはこの思いつきに興奮し、女性が帰ってからグティウスを待った。
 パンを買って帰って来たばかりのグティウスにこの話をしてみたが、彼は肩をすくめるだけだった。
「お前、わかってないな。金持ちの夫人が、奴隷と浮気をするわけがないだろう。それに殺したのがカスカトゥスなら、お前に罪を着せる必要がない」
 駄目か。タムは項垂れた。
 明日の朝になれば奴隷商人がやってくる。サンディを助けられなかったら、一人でこの町を出るしかないのか。長く深いため息をつく。
 グティウスはパンをくわえたまま、遠くを見つめて動かないでいた。
「グティウス、どうした」
 グティウスの口からパンが落ちる。「そうか、そうか。わかったぞ」
 何かをひらめいたように手を叩いている。
「わかったって、何がわかったんだ」
「タム、お前の従者は助かるかもしれない。明日は日の出前に起きろよ。いいな」
 どういうことなのか、さっぱりわからなかった。


 前の晩は酒を飲まなかったせいか、起き抜けの気分は悪くなかった。
 日が昇り始めた頃、グティウスとタムは通りの陰に身を潜めていた。ここである者を待ち伏せしているのだ。グティウスはそのある者がこの時間によく散歩をするのを知っていた。
 足音が聞こえてくる。タムはさっと、その者の前に出た。
「お前は……」と男は言った。タムの前で立ち止まったのは、あの日タムとサンディをカスカトゥス邸に連れて行った男達のうちの一人だった。口ひげを生やしていて、歳はグティウスと同じくらいだ。
 男はタムを避けて進もうとしたが、タムは腕を伸ばして行く手を遮った。元来た道を戻ろうとするも、そこにはグティウスが立っている。
「何の真似だ」
 男はタムとグティウスを睨んだ。
「走狗が。お前達はカスカトゥスの命令で、金を回収するんだろう。俺は大体、お前のように金持ちにへつらう奴は大嫌いだね」ふん、とグティウスが鼻で笑う。
「ギレニソを殺したのはお前だな!」
 腕を伸ばしたまま、タムが声を張り上げる。男は明らかに動揺して、目を泳がせた。
「犯人は捕まった。タムという男だ」
「違うな。タムという男に濡れ衣を着せた奴がいる」
「それが俺だと言うのか。根拠は何だ」
「お前、ギレニソにゆすられていたんじゃないか」
 男の顔色が変わる。グティウスは愉快そうに続けた。
「俺はな、偶然お前がカスカトゥスの奥方と連れ立って歩いているところを目にしたんだ。半月くらい前のことだったか、あの時もこんな早朝だったな。お前はカスカトゥスの手先だし、一緒にいるのは妙なことではないと思ったんだが」
 主人の妻と不義をはたらき、それをギレニソに知られてしまった。おそらく、口止め料として金をせびられていた男は、我慢ならなくなってギレニソを殺したのだ。奴隷とはいえ、主人でもないものが殺せば問題になる。試合の時間も近づいていた。男はとっさにギレニソの身に着けていた武具を持ち去り、そこらで寝ていたタムも膝の上に置いていったのだろう。
「殺した刃物はお前の持ち物だったんだろうな。置いていけばお前の仕業だとわかるから、持って行ったんだ」
 俺たちと来てもらおうか、とグティウスが言うと、男は腰に手を伸ばした。剣を抜く。丸腰だったタムは慌てたが、男が敵意をむき出しにしているのはグティウスの方だった。グティウスの目つきが鋭くなるが、その口元から笑みが消えることはなかった。彼が手にしているのは、養成所で教官が使用する木刀だ。
 男が剣を振りかざす。危ない、とタムは叫んだ。
 切りかかって男を避け、すかさずグティウスは木刀で男の手首を打った。剣が手から離れる。続けざまに、男の腹を突いた。無駄のない動きだった。あっけなく男が倒れる。
「グティウス、お前、強いんだな」
 男は気絶していた。
「それはそうさ。俺は闘士養成所で戦い方を教えている教官だぜ」
 用意していた縄で男を縛り、目を覚ますのを待つ。やっと自分が殺したと白状したので、そのままカスカトゥス邸へ連れて行った。



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