「ようやく決断したか。他人が容喙すべきことではないと思ったが、お前の覚悟を知る為にわざと意地の悪いことを言ってやったんだ。そうと決めたなら協力してやるから、早く寝ろよ」
「ありがとう」
グティウスが手をあげるのが見えた。きっと、笑っていることだろう。
物音がして目が覚めた。
もう朝だった。グティウスは井戸に水を汲みに出ていたらしい。
朝食はパンとりんごだった。パンを飲み下すには苦労した。昨日のことを考えると、食欲が失せるのだ。もっと早くにここを出ていれば、このようなことにはならなかっただろう。
「悔やんでも仕方ないだろうが。悔やむ暇があれば、どうするか考えることだな」
グティウスはタムの倍ほど食べていた。タムが残したパンまで口に押し込み、それでもまだ物足りなさそうな顔をしていた。
「昨日酒を飲み過ぎて、気分が悪い」とタムは訴えた。頭痛がするのだ。
「だらしのない奴だ。あれしきの酒も飲めなくてどうする。さあ、行くぞ」
「行くってどこに」
「ギレニソとかいう男が殺されたところだよ。外で聞いたんだが、闘技場の裏だそうだ。従者を助けるには、真犯人を見つけるしか方法はないだろう」
二日酔いにはこれが効く、と渡された苦い緑の葉を咀嚼しながら、タムはグティウスと共に闘技場へ向かった。
今日は試合がないようで、闘技場の周囲にひと気はない。気のせいか、闘技場からは血の臭いが漂ってくるようだった。タムは無意識に顔をしかめた。
「ここではどのような試合が行われているんだ」
「剣を使い、勝ちぬきの試合をするんだ。昨日のお前の試合はそれとは別の、余興みたいなものだがな。勝ちぬきの試合で最後に残った者は、市長に望みを聞いてもらえる。闘士は罪人や捕虜が多いが、自ら志願する者もいるな。金が貰えるし、勝てば英雄だ。そうだ、お前の試合の前には、公開処刑があったな」
「公開処刑だって?」
血の臭いが濃くなった気がした。ますます気分が悪くなる。
「罪人を磔にして、獣に喰わせるんだ。昨日は虎だったな。午前は試合の前菜として、そういうことをよくやるんだ」
「市民はわざわざそれを観に来るのか」
「そうさ、大喜びでな。罪人が悲鳴をあげながら獣に腕を喰いちぎられるさまは、圧巻だそうだ」
吐き気をこらえきれなくなってきた。口に手を当てて、下を向く。
「タム、見たわけじゃないんだろう。しっかりしろよ」
グティウスが言った。
何と惨い。人の死が市民の娯楽となっているのだ。彼らにとっては公開処刑も単なる刺激的な催し物にすぎない。
「いつの時代だって、他人の不幸は娯楽なのさ。そういうものだ」
グティウスはその言葉ほど割り切っていないように見えた。彼はこんな風潮に嫌悪感を抱いている。
タムは腹に力を入れ、息を吐き出した。こんなところでもどしている場合ではない。
「これしきのことで吐き気を催すとは、情けない奴だと思うか」
痛む胃をさすりながらタムは言った。
「平然としていたら、それこそお前を軽蔑するところだよ」
グティウスは薄く笑って見せた。この町でこの男と出会えたのは、幸運なことなのかもしれない。
闘技場の裏にある茂みに、ギレニソは横たわっていたそうだ。死体は移動されていてもうそこにはなかったが、血の跡は残っていた。グティウスが近くを通りかかった老人をつかまえて話を聞く。
「昨日、ここで男が殺されたんだってよ。聞いたか」
「そういう噂は聞いたな」
「犯人は捕まったって?」
「そう聞いたよ。刃物で喉を切られたらしい」
周りには誰もいないのだが、老人は声を潜めた。手を水平に動かし、喉を切るような仕草をする。
「その刃物は見つかっていないそうだがな」
ギレニソが見つかったのは、丁度タムの試合が始まった頃だった。見つけたのはカスカトゥス邸の使用人で、身元はすぐに判明した。
次に二人が向かったのは、グティウスが教官として働いている養成所だった。同僚に、ギレニソはどのような男だったか聞いてみる。わかったのは、誰の印象にも残らないほど目立たない者だったということだけだ。腕もさほど立つわけではない。だからこそ、余興のような試合に出ることになっていたのだ。
奴隷であり、人付合いなどないギレニソを殺そうとする者など、いるのだろうか。
夜、タムとグティウスは再び昨夜の酒場へと向かった。店内にいるのは置き物のように動かない老店主と、隅で酔い潰れている男だけだ。昨日と同じ光景だった。
タムの口から出るのはため息ばかりだった。松の実をかじり、ため息をつき、松の実をかじり、またため息をつく。金を払うのはグティウスだということもあり、今夜こそは酒を控えるつもりだった。
「こんな調子で犯人は見つかるだろうか」
手がかりはない。苛立ちがつのる。
「あと二日のうちに見つけないとな」とグティウス。
「どうして二日なんだ」
「魚好きの豚――カスカトゥスと繋がりのある奴隷商人が、三日後の朝この町に来るんだ。言っただろう、売られると」
そうならないよう、どうにかしなければならない。だが、どうにもならないかもしれない。タムは歯噛みした。
手が酒にのびる。酒は喉を通り、胃に落ちていった。胃が熱くなる。
誰が悪いのだろう。もちろん、あのカスカトゥスとかいう太った高利貸しだ。しかし、自分はどうなのか。あの試合に出てしまったから、こんなことになったのだ。悔やむ暇があればどうするか考えろとグティウスは言ったが、悔やまずにはいられなかった。
舌打ちをして、また酒に手を伸ばす。三杯、四杯と、飲み続けた。
「あいつがギレニソを殺したということは考えられないのか」
グティウスが言う。あいつというのが誰をさすのかわからなかったタムは、首を傾げた。
「試合に出る前は、あいつがどこでどうしていたか知らないんだろう」
サンディのことか。
確かに、眠っている間にサンディが何をしているかは知らない。それでも、こう断言できた。
「サンディは、そんなに愚かなことをする奴ではない」
サンディがどうしているかと、今日一日はあえて考えないようにしていた。しかし、酔いがまわってくるとつい考えてしまう。
酷い目に遭っていなければいいが。虫の好かない奴ではあるが、憎んでいたわけではない。
タムは隣を見た。
ルトがいる。
隣に、ルトが座っている。
実際そこに座っていたのはグティウスだったが、酔っているタムには、サンディの前の主人であるルトに見えた。
「すまない、ルト。私の失態で、あなたの象が売られてしまうかもしれません」
タムはグティウスの腕をつかんだ。
「ルトって誰だ。お前さては、酔っているな。飲み過ぎるなよ。自棄になって飲むのはやめろ」
そんな忠告ももはや手遅れだった。
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