02


 タムの正面にある席の一角は、身なりのいい集団が占拠している。貴族だろうか。この大会の主催者か。
 審判が、何だかを何だかに誓いなさい、と言う。これもまたはっきりとは聞こえなかったが(兜をかぶっているせいだった)、どうでもよかった。誓ったところで現状は変わらない。
 再び銅鑼が鳴った。ついに試合が始まるのだ。今すぐ兜や鎧を脱いで、ここから逃げ出したかった。悪い夢でも見ているようだ。
 そう言えば、象のサンディはどこに行ってしまったのだろう。従者のことが頭をかすめた時、審判が試合開始の掛け声をかけた。
 男は剣を構えたかと思うと、地面を蹴ってタムに向かってきた。
 殺される。
 腰を抜かしそうになりながらも、何とか横に移動して避けた。体が傾いで前のめりになる。転びかけたがどうにか踏みとどまった。
 気配を感じた。男がまた攻撃を仕掛けようとしているのだ。振り向くと同時に、盾を構える。がん、と大きな音がした。男の剣がタムの盾に当たった。もし咄嗟に防いでいなければ、首がとんでいたかもしれない――などと考えて、青くなる暇すらなかった。衝撃で尻もちをついてしまった。
 続けざまに男が踊りかかってくる。タムは自分でも信じられない俊敏さで、這って逃げた。みっともないが、なりふり構っている場合ではない。立とうとするが右足で左足を踏んでしまい、転んだ。顔や肘をしたたかに打つ。痛みに耐えながら、ようやく立ち上がった。
 こちらからも攻撃を仕掛けなければ、と剣を構える。だがタムの手に剣はなかった。先程転んだ時に、飛んでいってしまったのだ。急いで取りに行く。
 男が野太い声をあげながら向かってきた。タムも負けじと声をあげる。しかし、年老いた猫の鳴き声のような声しか出なかった。悲鳴に近い。自分の声を聞いて涙が出そうになったのは初めてだった。何と情けない声か。
 男が目前まで迫った時、怖気づいたタムは剣を交えることなく男の横を通り過ぎた。自分の足に躓き、また転ぶ。
 その時、審判が休憩の合図を出した。タムと男はそれぞれ控えの部屋へと戻った。部屋ではグティウスが大笑いしていた。タムの兜を脱がすと、水の入ったかめをさし出す。
「笑うな!」
 グティウスの手からかめを引っ手繰って、水を飲む。
「お前があんまり転ぶんでな。タム、鼻血が出ているぞ」
 鼻の下に温かいものが流れているのには気づいていた。手の甲で拭う。
「疲れた」
 タムは腰を下ろした。休憩時間は数十秒しかないそうだ。あまりゆっくりもしていられない。グティウスは武器や防具の点検をしながらもにやついていた。
「お前みたいな情けない奴は見たことがない」
「仕方ないじゃないか。私は戦いの訓練なんか受けたことがないんだ」
「それなら、お前に助言してやろう。相手に情けはかけるなよ。自分が勝つことだけを考えろ」
「私が情けをかけられたいくらいだ」
 グティウスはタムに、前のものより軽い盾を持たせた。これで幾分、負担は減らせるはずだと言う。兜をかぶせられ、タムは闘技面へ出た。
 銅鑼が鳴る。試合再開だ。
 先手必勝、とばかりにタムは駆けだした。思い切り剣を振りかぶる。相手の剣とぶつかったかと思うと、力負けして弾かれてしまった。あっさりと剣が手から離れる。盾で男の攻撃を防ぎつつ後退した。
 男が大きく剣を薙ぎ、一瞬隙が生じる。その隙をついて盾ごと突進した。これも押し返されてしまい、後ろへ倒れる。男がタムを踏みつけようとした。転がって避けると、今度は剣で刺そうとする。これも危ういところで避けた。
 この間観衆はどよめき、タムや男に応援や罵りの言葉がとんでいたが、タムがそれに耳を傾けることはなかった。
 立ち上がりかけたところで、男が盾を押しつけてくる。タムは踏ん張り、全力で押し返そうとした。男の顔が近づいた。生臭い息がかかる。改めて、顔も知らない相手と何故このような試合をしなければならないのかと不満に思った。
 不満が怒りに変わり、怒りが力に変わる。
 渾身の力を込めて、男の脛を蹴飛ばした。男が呻いている間に、剣を取りに走る。足を押さえて屈んでいる男の背後に回り、執拗に剣で頭を叩いた。と、男は立ち上がり、剣を持った手で発止とタムの顔を打った。
 視界が白くなる。倒れたタムは歯を食いしばって体を起こした。起き上がる気力はなかったがしかし、横たわっていれば殺されるだけだ。目眩はするし、口の中には血が滲んでいた。荒い呼吸の音が兜の中に響いている。
 殺せるだろうか。
 私はあの男を殺せるだろうか。
 自分の命惜しさに相手の命を奪うことなど、許されるのか。
 疲労のせいか、タムは感傷的になっていた。
 この場では甘んじて死を受け入れることこそ、正しいことではないのか。そうだ。勝つことなど無意味だ。タムは剣と盾を捨てた。
 暑いな。季節は夏だろうか。夏か冬かも知らぬままに、私はここで死んでいくのだ。全てを諦め、天を仰いだ。
 そして、目を見張った。急いで観客席に視線を戻す。サンディがいたのだ。盛り上がる観客に囲まれ、一人だけ落ち着きを払い両腕を組んで座っている。
 何をしているんだ。あんなところで悠々と、今の今まで試合を見ていたというのか。信じられない。
「あいつめ……」
 対戦相手の男が決着をつけようと、タムに向かって走る。そんな男はもはや眼中にないタムは、サンディに向かって走ろうと一歩を踏み出した。その一歩が盾を蹴飛ばす。つま先に激痛が走った。
 盾は地面を滑り、そこへ走ってきた男が盾を踏んだ。危ない、とタムが言う前に男はひっくり返ってしまった。兜は脱げ、剣も円を描きながら飛んでいく。
 打ちどころが悪かったのか、男は倒れたまま動かなかった。タムはそっと男の顔をのぞきこんだ。髪と髭は縮れていて、どちらも束ねている。口の中に見えるのは、不揃いの黄ばんだ歯だった。
 審判も近寄ってきて、男の体を揺すった。
「死んだのか」おそるおそるタムが尋ねる。
「息はしているようだから、生きているだろう。気を失っているだけだ」
 審判はタムに名を尋ねてきた。「名前を書いた紙を紛失してしまってな。名前は何と言ったか」
「タムだ」
 頷くと、審判は拳を突き上げた。
「勝者、タム!」
 どっと歓声があがる。万雷の拍手の中にはどういうわけか笑いが混じっていた。観客達は白い布切れを振っていた。例の身なりのいい者が集まっている席で、中心に座る男が立ち上がり、両手を上げた。更なる拍手が起こる。
 審判に退場するように声をかけられ、タムは控えの部屋に戻った。グティウスが迎える。失礼なことに、彼は腹を抱えて笑っていた。
「グティウス、皆が白い布切れを振っていたが、あれはどういう意味だ」
「敗者の助命だよ。あいつは助けられるぜ」
 それは良かった。見ず知らずの男とは言え、自分との試合に負けたせいで殺されてしまったら後味が悪い。
「愉快な余興だったな。楽しませてもらった。久々に大笑いしたよ」
「余興だと? 私は真剣だったんだ」
 人を楽しませるような演芸をした覚えはない。
 誰かが部屋に入ってくる。グティウスが「関係者以外は立ち入るな」と言いかけたが、タムは彼を押しのけて前に出た。入ってきたのはサンディだったのだ。タムの顔が怒りのせいで赤みを帯びる。
「お前、どこにいた。ええ、言ってみろ! 私が殺されるかもしれないという時、お前はどこで何をしていた! 私は知っているんだぞ」



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