星夜と詩人:01


 冷たい。薄く開けた目に何かが入り、タムは慌てて身を起こした。顔が濡れている。手も濡れていた。雨が降っているのだ。
 見上げると、空は鉛色の分厚い雲に覆われている。
 タムが寝ていたのは、木々に囲まれた場所だった。あの古の泉がある小さな森かとも思ったが、様子が違う。自分を乗せていた象の姿はどこにもなかった。
「サンディ、どこにいる」
 手や服についた泥を払いながら、立ち上がった。唯一の持ち物である鞄を背負う。
「ここはどこだろう」
 道らしい道はなく、小さな木や草をかきわけて進んだ。濡れた葉が体にはりつく度、それを剥がす。しとしとと降る雨はやみそうになかった。
「どこへ向かって行ったらいいんだ」
 後ろを見て歩いていたタムは前方が急斜面になっていることに気付かず、足を滑らせてそのまま転げ落ちた。落ちたところは運悪く小川だった。雨のせいで水かさは増しているようだが、本当に小さな川なので流される心配はなかった。石にぶつけた頭を押さえ、起き上がる。
「最悪だ」
 頭だけではなく、肩や足も痛んだ。どうしてこんな目に遭わなければならないのか。
「タム、どうしたのですか」
 ずぶ濡れになったタムが顔を上げると、目の前にサンディが立っていた。
「お前、ここで何をしている」
「食べ物を探していました」
「そうか、お前は腹が減れば自分の主人をそこらに残して食べ物を探しに行くんだな」
 むかっ腹が立っていたタムは強い口調でそう言った。
「私は寝ているタムを安全なところへ残してきたつもりです。あなたは一度深い眠りにつくとなかなか目が覚めない方ですから。それで、どうしてこんなところにいるのですか」
 前をよく見ないで歩いていたら足を滑らし斜面を転げ落ちた、などとは言いたくなかった。目線を落として黙っていると、サンディが顔を覗き込む。
「謝りましょうか。ご不満があるなら謝ります」
「いや、いいよ。謝らなくていい」
 謝るか、と尋ねられてから謝られると虚しいだけだ。
 急に寒くなったようで、タムは自分の体を両腕で抱きしめた。川に落ちたせいで体が冷える。
「タム、顔が青いですよ」
「寒いんだよ」
 前にいたところは干からびるほど暑かったのだが。
「私はどのくらいの間眠っていたんだ」
「九百九十三年と六十五日です」
「そうか。二つの村はどうした」
 この問いに、サンディはやや間を置いて答えた。
「大雨が降り、水に流されました」
「そうか……」
 世話になった村の者がどうなったのかは、聞かないことにした。どの道あれから長い年月が経っているので、彼らはもういないのだ。ともかく、石板の予言は当たったというわけか。
 タムは大きくくしゃみをした。このままだと風邪をひいてしまいそうだ。
「休めそうなところはないのかサンディ。近くに集落などはないのか」
「ないでしょうね。山奥ですから」
 この雨の中、野宿など出来るはずがない。洞穴がないか探してみましょう、とサンディが歩き出した。待っているかと聞かれたが、タムもついて行くことにした。動かないでいると、寒さが身にしみるのだ。
 タムとサンディはかなり離れて歩いていた。サンディは主人に合わせてゆっくり歩こうとはしなかった。
「サンディ、乗せてくれないか」
「象の姿ではこの山道は歩きにくいのです」
「それならせめて、私に歩調を合わせてくれないか。はぐれたら面倒じゃないか」
「そうしたら、日が暮れてしまいます。夜が更ける前に休める場所を見つけた方がいいでしょう」
 ああ言えば、こう言う。この象は口答えばかりする。だが彼の言うことが間違っているとも言い難く、叱ることは出来なかった。不本意ではあるが、自分が彼に合わせて歩けばいい。痛む足を必死で動かした。しかしサンディとの距離は縮まらず、タムは足を止めた。
 と、先を歩いていたサンディが戻ってくる。
「もう少し進むと、洞穴があります。そこでなら休めそうですよ」
 助かった。元気を取り戻したタムは歩き出した。
「先客がいますがね」
 サンディが付け加える。
「先客?」
「はい。男がいます」
 なかなか大きな洞穴だった。サンディの言うように、先客がいる。木の枝を火にくべていた男は、タムとサンディを見てぎょっとした。服装はどこかみすぼらしく、痩せていて気弱そうな男だ。
「何か?」
 男の声は裏返っていた。
「ここで一緒に休ませてもらってもいいでしょうか」
「ああ、どうぞ。どうぞ」
 タムの言葉を聞くと男は安堵の表情を見せた。だが、まだ青ざめている。
 タムは濡れた服を広げて乾かした。焚き火に近づくと、寒さも和らぐ。男は背は高いが顔は幼く、タムより年下のようだった。何かに脅えているように身を縮めている。
「君は、旅の途中か?」
 タムは尋ねた。
「はい、そんなところです。雨が降り出したので、今夜はここで過ごそうかと思います」
 旅人にしては荷物が少ないようだ。タムの視線に気づいた男は、荷物を自分の方へ引き寄せた。どうも、挙動不審である。タムから声をかけることはあっても、男から声をかけてくることはなかった。話すことが好きではないのかと思い、タムは喋るのを控えることにした。サンディも黙ったままだ。
 ふいに男が口を開いた。
「僕、羊飼いなんです。家出をしました。もう、羊飼いの仕事がしたくなかったんです」
 この男は家出中らしい。それを後ろめたく思っているから、このような態度をとるのかもしれない。名を尋ねるが、羊飼いは答えなかった。
 突然洞穴の奥から呻き声が聞こえ、飛び上がるほどタムは驚いた。
「人の声ですね。誰かいるんですか」
 立ち上がろうとするサンディを、羊飼いが制する。
「僕の姉です。姉と一緒に家を出たんです。具合が悪いので、奥で横になっているんです」
「それは大変だな。大丈夫なのか」
「様子を見てきます」
 奥へ目をこらすと、確かに誰かが横たわっているようだ。布がかけられていて、こちらには背を向けている。羊飼いが何やら声をかけ、戻ってきた。
「まだ気分がすぐれないようです。そっとしておきましょう」
 挨拶をしに行くべきか迷ったが、相手は女性で、しかも具合が悪いのだ。今はやめておくことにした。サンディはまだ奥の方をじっと見ている。
「ところで、家を出てどこへ行く気だったんだ」
「ここです」
「ここ?」
 名を名乗らない羊飼いは頷いた。「この山は星がよく見えるんです。今は生憎の天候ですがね。僕は星をより近くで見たくて、この山まで来ました」
「星が好きなのか」
「はい」
 羊飼いは微笑んだ。彼は星を眺めるのと、詩を読むのが趣味だと言う。



[*前] | [次#]
しおりを挟む
- 19/59 -

戻る

[TOP]
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -