05 夢
- 「随分とお仲間ごっこに入れ込んでるね」
情報交換のため、深夜に集まるのが日課となっていたある日。アニはライナーに向かって軽蔑しきった視線をよこした。
「特にあの子。鎧の巨人を倒す……って言ってた」
「ああ。ベロニカのことか。それが何だ?」
壁内と生まれ育った外の世界の文明の間には100年の隔たりがある。頭で理解していても、骨子となる知識なしで異文化に適応するのは困難だ。そこでライナーは当初より好意的だったベロニカに取り入り、技術史をはじめとするこの世界の常識を教わった。山奥の村から出たことがなく、本を読む環境もなかなかなかったからと偽れば、彼女はいつだって疑うことなく情報を提供した。
その代わりと言ってはなんだが、立体機動のコツを教えてほしいと頼まれて、訓練に付き合うようになって久しい。アニはそのことを言っているのだろう。
ライナーは淡々と続ける。
「お前こそ他人を気にかけるとは、珍しいなアニ。当然、俺たちが壁を破壊したあの日、大勢の島の悪魔が死んだ。特に超大型や鎧はあいつらにとっちゃ破壊の象徴みたいなもんだ。それこそ、目の敵にしてる奴らはごまんといるだろうさ――あいつもそのうちの一人に過ぎないってだけだ。何を気にする必要がある」
全ては兵士として深く潜入し、目的を果たすため。彼女と仲良くする理由はそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもあるはずがない。
「それに、普通にしてたってあいつの方からやってくるんだから、無視できねぇだろ。断るほうが不自然になる。お前が逆に孤立しすぎなんだ。『仲間』に頼られたんなら、面倒の一つや二つ見てやるのが兵士として当然の――」
「もういい」
アニは吐き捨てるような口調で遮った。
「勝手にしなよ。……どうせ、私の知ったことじゃない」
「……」
「……今日はここまでだな」
ベルトルトは何も口にすることなく唇を引き結び、不安そうな面持ちでこちらに視線を寄越している。これ以上話を続けても身にならないと感じたライナーは、沈黙を打ち切って解散を告げた。
◆◆
「ライナー、はいこれ」
「おう」
一通り自主訓練を終え、服をたくし上げて汗を拭っていると、先にへたりこんで息を整えていたベロニカが羊皮の給水袋を差し出した。熱のこもった身体に冷たい水は心地よく、栓を抜いてごくごくと中身を一気に飲み干すと、唇の端からこぼれおちた水滴が顎を伝っていく。
「あーあ、やっぱり勝てないなあ。どうやったらそんな巧く飛べるんだろ」
木の根元に腰を落ち着けたまま、ベロニカはため息をこぼした。口元をぐいと拭いて彼女を見やると、悔しいと嘆くわりにどこか嬉しそうだ。「まあ」ライナーは口を開く。
「要は慣れだと思うぞ。俺から言えることとすれば、体幹を意識することと、足腰の筋肉をつけろってくらいか」
「筋肉……筋肉、もっとつきやすい体質だったらな……卒業までに一回くらいは勝ちたいのに」
「あと半年もないぞ?」
口角を上げて揶揄ってみせると、ベロニカは口を尖らせた。
「半年あれば十分だってば。首を洗って待ってなよ」
「頼もしいな」
その子供っぽい仕草が微笑ましくて、ライナーは軽く目を細めて笑う。自分一人を目標にして健気に追いかけてくる仲間を無下にできるはずもない。『兵士』である自分からしたら、彼女は妹分のようなものだ。優秀な同期は他にもいるのに、その中でも自分を特別に慕ってくれるのが嬉しくて、気がついたら目の前の薄灰色の頭をわしゃわしゃと撫でていた。
「わっ!?……き、急になに!?」
「あ……。いや、すまん。手近な位置に頭があったからつい」
ベロニカは少し頬を赤らめながらも、「また私のこと犬扱いして」とぶつくさ文句を垂れている。
しっかり者のように見えて負けん気が強く、妙に分かりづらいところで抜けていたりする。それがベロニカ・ファイトの人となりだった。アニはなにやら心よく思っていないようだが、彼女は特段警戒するに値しない相手だとライナーは考えていた。
(こんな細腕で、俺を殺せるとは到底思えない)
ミカサやアニという規格外を知る以上男女の差が云々と言うつもりはないが、彼女相手ならば身ひとつで挑まれようと勝つ自信があった。お前の実力で鎧を倒すだなんて無謀だ。諦めちまえよ、と思ったことも一度や二度ではない。だが、巨人の脅威を目の当たりにして現実を知っているはずなのに、彼女は一度として弱音を吐くことはなかった。生傷も絶えず、厳しい訓練に泥臭く食らいつく姿を見ていれば、どこまでも本気なのだと思い知らざるを得なかった。
この女だけではない。エレン・イェーガーも、それについていく奴らも。訓練兵団にはそういう馬鹿ばかりが集まっている。
島で過ごすうちに数多くの『悪魔』を目にしてきた。自分達に降りかかった悲劇を嘆き絶望に暮れる者。現実を受け入れず、これまで通りの生活を享受したいがために他者を踏みつけにする者。そして一握りの一際愚かな住民たちは、ベロニカのように、限られた空を見上げては馬鹿みたいに夢を見ていた。壁の外の世界のことなど何も知らず、無知で能天気で、叶うとも知れない遠い夢ばかりを追いかけている。
こいつらは本当に何も知らないのだ。近づく破滅の音に気付くことなく、ただあの日まで泥のような平穏を享受していただけの、普通の。
胸中に生まれたちりりとした感情を振り払いたくて、ライナーは「そろそろ行かないと教官にどやされちまうぞ」と努めて明るく彼女に告げた。
荷物をまとめて訓練場より兵舎に戻る道すがら、彼女のつむじを見下ろしながら他愛もない話をする。
軽く結ばれた髪の毛は会話するたびに尻尾みたいにゆらゆら揺れている。
「遅くまで付き合ってくれてありがとう。ライナーだって疲れてるのに」
「気にするなよ、持ちつ持たれつってやつだ。俺だって前に講義で頼らせてもらったろ。あの時は助かったぜ」
「あはは……。どういたしまして。でも、私のこれはほとんど受け売りなんだ。兄みたいな人がいて……私はその真似事をしてるだけにすぎないよ」
「そうなのか?」
彼女は苦笑して、懐かしい記憶に浸るように目を伏せる。
「うん。私なんかとは、比べものにならないくらい優秀だった。彼と同じように父に認められたくて……いつも後ばっかり追いかけてたんだ」
意外だった。たしかに、やりたいことに体が追いついていない感じはある。だが、他人にどう言われようが構うことなく、まっすぐ目標だけを見据えている。それがライナーにとってのベロニカ・ファイトの印象だったからだ。
「父に認められたかった」と、そう口にしたベロニカがかつての自分と重なる。
「……俺も」
気がつけばつい同意するように呟いていて、ライナーははっと我に帰った。こちらを怪訝に見上げる彼女を横目に、気が緩みすぎだと内心で臍を噛む。誤魔化してしまおうかと迷ったが、これくらいなら話してしまっても支障はないだろうと思い直して言葉を続ける。
「……俺にも尊敬できる兄貴分みたいなやつがいた。機転が効いて、強くて、誰からも頼りにされて……」
そうだ。マルセルは誰より優秀な戦士だった。始祖奪還作戦の要として期待を背負い、それでも弱音を吐くことなく皆の頼れる兄貴分であり続けたマルセル。戦士隊の誰もが彼には一目置いていた。それなのに。あの日、自分が真っ先に逃げ出したせいで、マルセルは巨人に食われ、その命を落とした。
「ライナーも、その人みたいになりたいの?」
「ああ……そんなところだ」
珍しく微妙な歯切れの悪さでそれを口にしたライナーを見て、過去形なところを見ると自分と同じく亡くしてしまったのだろう、と察したらしい。ベロニカは「そうなんだ……」と寂しげに呟いた。
「それは……つらい道のりだね」
喪った命を取り戻すことはもうできない。誰かの代わりを果たす。その使命は果てしなく重いはずだと。共感の籠った瞳から目を逸らせず、喉のあたりで息の詰まる感覚がライナーを襲った。あどけないまなざしで内面を見透かされているようで、急に恐ろしくなる。
「……それでも、逃げるわけにはいかねぇだろ。譲れないものがあるんなら……進み続けなければ、何も始まらない」
ライナーは自分に言い聞かせるように語気を強めた。心地よいはずの穏やかな草木のざわめきが、妙に大きく聞こえる。その静けさを断ち切るようにして、ベロニカははっきりと口にした。
「――ライナーならできるよ。絶対に」
自分より高い位置にある頭を見上げ、力づけるように微笑んでみせる。
「きみが頑張ってるのはよく知ってる。その努力はきっと、いつか報われる日が来る」
まさに悪魔の甘言だった。
陰りひとつない笑顔で、いとも容易くこれまでの歩みを肯定される。何も知らないこいつにそんなことを言われてもなんの意味も成さないと分かっているのに、その言葉は毒のように回る。
(こいつの……お人好し加減には、本当に、参る)
多くの苦痛を知るはずなのに、それでもどこまでも強かで、純粋なままでいる。彼女は、誰に何を言われようと、己が「信じる」と決めた対象ならば、どうしようもない人間でさえも受け入れてしまうのだろう。戸惑いと苛立ちに混じって湧き上がるこの妙な気分をどうすればよいのか、ライナーには皆目見当もつかなかった。
「そうだな。故郷に帰るっていう目標は同じなんだ。俺も、お前も」
「うん」ベロニカは笑った。眩むような逆光の中で、小さな手のひらが無邪気に差し伸べられる。
「それなら、私ときみと――」
「夢を叶えるまで競争だね」
目の前の女の正体を、ライナーは知っている。
その身体に流れる血の悍ましさ。生きているだけで世界を滅ぼしかねない、残虐非道で、死んで当然の悪魔の末裔。誰がどう弁明を垂れようと2000年の歴史の厚みがそれを物語っている。その罪を自覚もせず、のうのうと夢を見ることが許されているだけ、お前らはまだ恵まれているのだと吐き捨ててやりたくなる。
(間違いじゃない。間違ってなんかない。世界のためにこいつらを殺すことは、正しい行いなんだ)
だけど。
時折、その憧れに満ちた煌めきから目が離せない瞬間があった。こちらを疑いもせず慕う無垢な眼差しは、どこかで見た深い海の色をしている。夕陽が形作る木の影が徐々に濃くなる中、なんてことのない相槌を返そうとして、くらりと郷愁に似た痛みに襲われた。
誰もが自分を認め、自分を否定することのない世界。今だけは、今だけと分かっていても。このまま、なまぬるい夢のようなひとときに浸っていたかった。