06 岐路
- 夢を見る。
知らない場所だ。人っ子一人いなくて、夜空に亀裂のように伸びる光だけが、無限に広がる地平線を照らしている。
砂を踏み締めて行くあてもなく足を進める。これだけ時間があるならいくらでも読書で時間を潰せるのに、その本も手元にない。周囲の景色にも慣れてきて退屈を紛らわしたくなってきたその時、知らない人影が遠くに立っていることに気づく。逆光で姿形ははっきりと分からない。自分の知る誰かのようにも思えたが、名前がちっとも出てこないのが不思議だった。
「きみは誰?」
口に出した言葉は、その子に届いただろうか。
影は何も言わず、ただじっとこちらを見ている。
ベロニカはゆっくりと微睡から目覚めた。緩慢にまばたきをするうちに薄暗い天井に焦点が合っていく。変わった夢を見ていた気がするが、内容は思い出せなかった。
息をするたびに全身が痛む。けれどどうしてもここにいてはいけない気がして、力の入らない体を無理やり動かして立ち上がり、近くの出口を目指した。包帯が巻かれた手で取手に縋り付くようにして扉を開ける。内装から言って、ここはトロスト区の兵団本部だろうか。壁伝いに手をつき、足元をふらつかせながら歩もうとする。だが、10歩もしないところで目の前がちかちか明転しはじめて、ふっと意識が飛びかけた。力なく足元から崩れ落ちそうになった瞬間、咄嗟に頼り甲斐のある腕に支えられる感触がした。
「ベロニカ!……お前……目を覚ましたのか」
「あ……ライナー……?」
ぐらつく意識の中で声の主を呼ぶ。聞き慣れた声音にベロニカは酷く安心感を覚えた。全身の力が抜け、そのままトン、と硬い胸に身を預ける。そうしているうちに徐々に視界が戻り始め、「……ごめん、もう大丈夫」と身を離そうとする。
「いや……」
言葉が途切れ、肩を支える指にほんの少し力が篭る。
「無事で良かった」
そう低く呟いた彼の表情は見えない。頭の痛みを堪えてベロニカはようやく周囲の状況を把握し始めた。目の前にいるのは、こちらを覗き込むライナーとベルトルト。先程までいた部屋に寝かされていた負傷者たちは自分一人ではないようで、扉越しに寝息や呻き声が聞こえてくる。
「まだ無理に立ちあがらないほうがいい。結構出血してたみたいだったからな……アルミンやミカサ、あいつらも心配していたぞ」
「そっか……ありがとう」
「礼ならお前を手当てしたクリスタに言ってやれ」
その言葉に頷き、ぼうとした思考のまま額に巻かれた包帯に手をやる。その瞬間、はっと我に帰った。
「……ッ!!そうだ、超大型……!また壁が破壊されて、巨人が入ってきて、それで……!!」
あの日と同じ恐ろしい光景が脳裏に蘇り、ベロニカは顔を青褪めさせる。この5年間姿を見せなかった超大型巨人が再び現れ、トロスト区の外壁は無惨に破壊された。突如として訪れた人類の危機に場が混乱する中、新兵もまた訓練通り防衛作戦に組み込まれ、ベロニカが所属する班は中衛部後方に配置となったはずだ。しかし、作戦が始まってまもなく前衛が総崩れになり、逃げ遅れた市民のすぐ近くにまで巨人が突っ込んできた。精鋭部隊がたどり着くまでの時間稼ぎに、なんとか必死でその足止めをしようとした……ところまでは覚えているが、そこから先の記憶はない。今どういう状況になっているのか分からず、混乱するベロニカをライナーは冷静に諭す。
「落ち着け。ウォール・ローゼに侵入した巨人はもう全て掃討された後だ。それからすでに2日経ってる」
「え……?……でも、壁に穴がある限り、巨人は……あんな大穴をどうやって……」
「そうだな……どこから話すか。一応、俺たちが知りうる限りの情報を共有しておく」
ライナーはベロニカに向けて簡潔に状況を説明した。ベロニカたちの班が壁を登ったあと、中衛の一部は補給を断たれて撤退すらままならなくなったこと。そしてそこに助け舟のごとく現れた、人を狙わず、巨人だけを攻撃する奇行種の存在――その正体は同期であるエレン・イェーガーであったこと。その後ピクシス司令から作戦指示があり、彼こそが「兵団の巨人化実験の成功者」だと公言されたこと。そしてその、『エレン巨人』とやらが壁の穴を巨岩で塞ぎ、多くの犠牲を払いながらも、巨人の更なる侵入はなんとか食い止めることができたのだということ。
「エレンが……巨人で、兵団の秘密兵器……?」
「ああ……信じ難い話だろうが、嘘じゃない。巨人になったエレンのおかげで、俺たちは助かったってわけだ」
ライナーの話を聞いたベロニカは暫し考え込んだ。巨人を捕獲するのですら成功率は高くないはずなのに、巨人の力を身につけるなんてことが人類に可能なのだろうか。ましてや巨人化の生態実験だなんて方法すら見当もつかない。だが、実際にライナーたちが目撃したというのだから「エレンが巨人に変身できる」という事実は信じるしかない。
それより気になるのは、エレンの存在が証明するものだ。
超大型や鎧に知性がある可能性は以前より指摘されていた。鎧を間近で見たベロニカも、その推察は正しいと感じている。
人類を滅ぼすことだけを目的にするならば、あの日続けて全ての壁を壊してしまえば良かっただろうに、あれらはそうしなかった。明らかに、何らかの明確な意志を持って壁の扉を破壊したのだ。これまでの行動から、知性巨人の群れ、ないしは共同体がどこかに存在していて、計画的に外部から攻撃を仕掛けているのかと考えていたが……『巨人になれる人間』もしくは『人間になれる巨人』がこの世に存在しているのだとしたらその前提は大きく狂う。
(……どちらにせよ、普段ヒトの姿をしているなら、私たち人類と区別がつくはずもない。今この瞬間、どこかに紛れ込んでいてもおかしくない……)
このタイミングで仕掛けてきたことといい、どうも引っかかる。だが、完全に考えを固めるにはまだ情報が圧倒的に足りない。ずきずきと疼く頭を抑えるベロニカを見やり、ライナーは続けた。
「悪いが、俺達はこれから広場に行かなきゃならん。今は兵士総出で死体の回収と火葬の準備を行ってる。そのまま放置してたら復興すらままならねぇからな」
「……そう、なんだ。同期のみんなは……」
「ああ……」ライナーは視線を影に落とす。
「分かっているだけでも……34班はほぼ壊滅だ。トーマス、ナック、ミリウス、ミーナ。フランツもだ……それに……まだ見つかってないやつも大勢いる」
悼むように紡がれるよく知る名前にベロニカは表情を歪めた。
「そんな……」
解散式から数日しか経っていないというのに、あまりに多くの犠牲が払われたという事実を突きつけられ、言葉を喪う。俯くベロニカを横目に、ベルトルトは躊躇いがちに口を開いた。
「あの混乱した状況で……君は、よく生き残ったと思うよ」
運が良かった、と言いたげな彼の言葉にベロニカは唇を噛み締める。彼の言う通り、自分の実力で最後まで戦い抜けていたとはとても思えない。まずはあの局面を生き延びたことに感謝すべきなのだろう。
だが、それでも己を許せない。仲間が命を落とし、巨人に食われていく中で自分はただ無様に気絶していただけで、戦況に何一つ貢献することができなかった。無力感に押し潰されそうになりながらも顔を上げ、ベロニカはライナーたちを見据える。
「私も行く」
「いいのか?お前はまだ安静にしていた方が……」
「平気。……一人で、立てるよ」
◆◆
広場にやってきたベロニカの姿を認めた同期たちは、少しばかり安堵の表情を見せた。真っ先にクリスタが心配そうに駆け寄ってくる。
「ベロニカ!まだ横になってなきゃダメだよ……!」
「すまんクリスタ。俺も止めたんだが、聞かなくてな……」
「大丈夫だよ、もうわりと動けるから……それより手当てしてくれてありがとう、クリスタ」
「ううん……よかった……ベロニカだけでも、生きていてくれて……」
うっすらと涙ぐむクリスタも、誰もが一様に余裕なく酷い顔色をしていて、戦死者の多さを物語っている。ここにいない仲間たちの何人がこの炎の中にいるのかと、数えることすら恐ろしかった。
堆く積み上げられた薪から立ち昇る火柱で、辺り一面は明るく照らされている。反面、無数の死体を舐めるように焼き尽くす炎がその場にいる兵士の心にどこまでも底無しの影を落とす。
暗い空に向かって燻る煙の、喉の奥にまで染み込んでくる死臭を、掻き消すことなどできるだろうか。
鎧の巨人に近づくために調査兵団に入る。それは当初から決めていたことだ。己が選択で定めた生き方を、今更覆しはしない。
それでも、これが3年間苦楽を共にしてきた仲間達の成れの果てかと思うと心が折れそうになる。
人は脆い。巨人がただ手足を振り回すだけで、幾人もの兵士が簡単に物言わぬ肉塊と化し、築き上げてきた信頼は永劫に喪われる。
碌に戦えもせず、大事な人たちを護る力もなく、ただあの日を繰り返して。
自分はこれから、何度この光景を見ればいい?
遣る瀬なさと怒りで震える体を抑えきれず、巻かれた包帯に血が滲むほど強く拳を握り締める。
今この瞬間、音を立てて爆ぜる火花にもきっと呼ぶべき名前がある。あったはずなのに。
(……こんな、痛みに、人が慣れていいはずがない。慣れてたまるか。)
誰もが無言で立ち竦む中、不意にジャンがゆらりと立ち上がり、こちらに歩を進めた。
「お前ら……所属兵科は何にするか、決めたか?」
震えた声音で皆にそう問いかける。
「オレは決めたぞ」
誓うように拳を握りしめて、はっきりと口にする。
「オレは……調査兵団になる」
ジャンらしからぬ態度に驚くと同時に、その苦渋と決意に満ちた言葉がベロニカの胸に深く突き刺さった。エレンとあれだけ殴り合っていたジャンが、そんなことを言うだなんて、それまでの彼からは考えられないことだった。
だが、彼は――今この瞬間、これから進むべき道を決めたのだろう。
それが正しい選択なのかどうか、今の自分達に未来を知る術はない。けれど、その決断をこれから何度後悔することになったとしても、歩みを止めていい理由にはなりはしない。
これ以上奪われたくないのなら、喪いたくないなら。ただ、一歩でも前に進むしかない。そう教えてくれた人がいて、その道を進もうとしている仲間がいる。
ジャンの言葉を耳にしたベロニカも、決意を込めて上へと視線を向ける。
「私も……」
噛み締めた唇を開き、誰に語りかけるでもなく先立つ戦友に向かって誓いを紡ぐ。
「私も、もう迷わない」
人類の命運のため、己が信念のため。各々の思惑が渦巻く中、訓練兵団の団章に別れを告げ、心臓を捧げることになる若き兵士たち。その姿を、夜空に巻き上げられた火の粉のひとつひとつが見下ろしている。