07 齟齬
- 新兵を迎えた調査兵団にとって、初の大規模遠征となる第57回壁外調査。遠征を目の前にカラネス区に物資を運び入れた前日、配置が各班に通達された。
長距離索敵陣形。調査兵団団長、エルヴィン・スミスが考案した戦術だ。作戦企画紙を確認し、ここ数ヶ月で学んだ知識を反芻しながら、ベロニカは隣をちらりと見る。そこでは、同じ班に割り振られた同期のユミルが読めない表情のまま地に置かれた地図に目をやっている。
「――以上が作戦だ。万が一巨人と相対した時は可能な限りこちらで引き付ける。お前達新兵は予定通り連絡兵としての務めを果たせ」
「はっ」
「良し。では解散だ」
班長がそう言葉を締めくくる。班員たちは各々立ちあがって与えられた仕事へと帰っていくが、その最中ベロニカの横から鋭い舌打ちが聞こえてきた。
「チッ……なんでクリスタとじゃなくてお前と私が同じ班なんだ?」
「えっと、ごめん……私じゃ不満かもしれないけど、とにかく足を引っ張らないように頑張るよ」
気に入らなさそうにじろりと見下されてベロニカは苦笑せざるを得なかった。ユミルがクリスタを溺愛しているのは同期ならば皆知っていることだ。今回の作戦では違う位置に分けられてしまいさぞかし気を揉んでいることだろう。
「私はいつだってクリスタのそばにいたいんだよ。そうじゃなくてもあいつはほっとくとどんな無茶をしでかすか分からねぇんだ、だっていうのに、まったく……」
そうぼやいてユミルは空を見上げた。ベロニカも釣られるようにして澄んだ空気を吸い込み、雲ひとつない青い空を見上げながらただ足を進める。地を踏み締める砂利の音が二人の合間に落ちていく。明日の段取りを頭の中で整理しながら、ベロニカは先ほど見た配置図をふと思い返した。少々考え込んだあと、他の人に相談してしまった方が手早いと結論づけ、「ユミル、ひとつ聞いてもいいかな?」と話しかける。
「頼み事か?高くつくぞ」
「うん……まぁ、それはそれとして……気になることがあって。私たちに渡された配置図ではエレンは隊列の右翼側になってたよね?だけど、あの位置じゃ巨人に食われるリスクが高すぎる。平地だから巨人化も可能ではあると思うけど……エレンに巨人を迎撃させるにしても危険すぎやしないかって、そう思ってしまって」
遠征の準備期間でエレンとも再会して言葉を交わす機会があったが、エレンは巨人の力の正体はおろか、彼の生家にあるとされる地下室の謎についても何も知らないという。つまり人類は未だ巨人について無知であるということだ。だからこそベロニカにはエルヴィン団長の作戦指示がどうも腑に落ちなかった。エレンが真実の探究の鍵を握る存在であるとしながら危険に晒すのは、矛盾ですらあると思う。
「さあな。あの団長殿のことだ、新兵には推し量れない深いお考えがあるんだろうさ」ユミルは興味なさげに足をぶらつかせて答えた。「知らされてないってことは、一兵卒の私らには関係のない話なんだろ」
そうなのかもしれないが、エレンの安否、ひいては作戦の成功率もかかっているのだから気になるものは気になってしまう。あまり納得した様子でないベロニカに、ユミルは忠告めいた視線を返した。
「お前はどうも、余計なことに首を突っ込みたがる気性のようだが……世の中知らない方が良いこともある。それが上手い世渡りのコツだぜ」
そう口にして、唐突にガラの悪い笑みを浮かべたかと思うと、ユミルはベロニカの肩をぐいと引き寄せた。
「……さてベロニカ、お前はこれでまた私に貸しひとつだ。恩だと思ってるなら、配置を代わるよう上官様に進言してくれよ。模範生でいい子ちゃんのお前なら説得できるだろ?」
「ええ……」
「もうユミル、流石に無茶だよ!そんなことしたらベロニカが規律違反で罰せられちゃうよ!」
後ろからやってきて合流したクリスタが叱るようにユミルの背中にゴンと頭をぶつけた。誰にでも分け隔てなく優しく可憐な彼女は、怒った顔もかわいらしい。
「冗談だよクリスタ。私もそこまで鬼じゃない」
ユミルはそう肩をすくめるが、どう考えてもほとんど本気だったような気がする。やいやいとやりとりを続ける二人の間に巻き込まれて困惑していると、ユミルはにやりと口角を上げてベロニカの後方をくいと顎で示した。
「おっと……ベロニカ、お前の男が来たぞ」
「え?」
つい反射で振り向く。ベロニカの視線に気づいたライナーが怪訝そうに眉を上げて、こちらに向かってひらりと大きな手を振ってきた。
「あ……待っ……違うから!そういうんじゃないんだってば!」
咄嗟にユミルに弁明しようとするも、彼女はそれに構わず満足げにケラケラ笑いながらクリスタの腰を抱いて去っていった。どうにもユミルには敵わないというか、ずっと揶揄われっぱなしだ。脱力していると、「なんだ、またユミルに何か言われたのか?」と近づいてきたライナーが顔をしかめた。
「あいつ、一回俺からガツンと言った方がよさそうだな。……それよりベロニカ。お前今晩の馬当番だったろ。これ渡しとく」
「ありがとう……」
ライナーの指からベロニカの手のひらに向かって厩舎の錠が落とされる。それを受け取ると同時に、本当についに明日、生まれて初めて壁外へと向かうのだという実感が湧いてきた。半ば緊張、半ば高揚。奇妙な気分になりながらベロニカは少しばかり俯いた。
(『いつだって、そばにいたい』……か)
先ほどのユミルの言葉が思い出されて、後ろに回した拳でぎゅっと鍵を握りしめる。
ベロニカにとってライナーは憧れの存在だ。自分にもう一度、立ち上がる理由をくれたひと。その原点となる彼に偶然にも再会して過ごした日々は夢のような毎日だった。
その思い出さえあれば十分だった。
そのはず、だったのに。
(私の知らないところでライナーが死んだら――嫌だ)
人類の未来のために心臓を捧げる覚悟はとうにできている。自分が死ぬのは怖くない。けれど、たった今触れ合った乾いた指の熱がもし喪われたらと思うと、たまらなく怖くなる。
(本当に、どんどん強欲になって嫌になる)
煩悩を振り払うように一瞬きつく目を閉じ、ベロニカは小さく彼の名前を呼んだ。
「ライナー」
「何だ?」
「……ライナーは、死なないでね」
その言葉にライナーはしばし瞠目した。ほんの少し落ちた沈黙の後、「……当たり前だろ」と真剣な面持ちで口にする。
「俺はそう簡単には死なねぇよ。お前こそ、人のことばっかり考えてないで自分が生き延びることだけを考えろ」
気を張りすぎるなよ、とポンと手のひらを優しく頭に置かれてベロニカは黙って首肯する。いつもなら子供扱いしないでと文句の一つやふたつ言いたくなるところだが、今はその頼り甲斐のある感触がなにより安心の源だった。
「この作戦が成功すれば軍にとっては大きな前進になる。そうなれば夢に一歩近づく。お前の家があるシガンシナ区も……俺の故郷にだって。……競争は、一人欠けちまったらもうできない。だから――」
言葉を切って、ライナーは嘘偽りない瞳で下にあるベロニカの瞳を覗き込んだ。
「絶対に――生きて帰るぞ」
「……!うん……!」
約束を覚えていてくれた。その事実にベロニカは破顔する。そこにある僅かな、けれど致命的なズレに気づかないまま、恋と名づけるにも淡すぎる感情を大事に奥底にしまいこんで。