02 手のひら
- 「どうせならよ、ただ巨人に食われるのを待つよりかは、楽しいことをしたいってもんだ」
なぁ、お前もそう思うだろう、と。
男は歯をむき出しにして笑った。
あの日から半年。人類に残された領域は流入した避難民で溢れかえり、食糧難はなにより深刻な問題となっていた。ウォール・マリア奪還を謳った作戦が先日開始されたが、土地の奪還はただの名目に過ぎないと、口に出さずとも誰しもが理解していた。足りない。土地も食糧も、何もかもが足りなかった。このままでは多くの民が飢えて死ぬ。いずれにせよ、王政は避難民や失業者を淘汰することを選択した。それがこれまで通りの何不自由ない生活を送りたいと願う、内地の住民の総意であった。
一方で身寄りを亡くした孤児たちは、幼くして生産者側に立つことを余儀なくされる。ベロニカも例外ではなく、ウォール・ローゼ僻地の開拓地で畑を耕し、せめてもの食い扶持を得る毎日を送っていた。
切り捨てる側。切り捨てられる側。その境界線は人々の胸の中に超えられない壁を築く。100年の平穏は仮初めのものに過ぎず、いつまた巨人が入ってくるかも分からない。誰しもが諦念に満ちていた。土地や財産を奪われた者は数知れず、追い詰められ、自暴自棄になった者が悪しき道へと足を踏み入れるのも時間の問題だった。おそらくは、ベロニカの目の前で下卑た笑みを浮かべている男もその一人。
すべてを諦めて、ベロニカは無意識に籠の取っ手を握りしめた。男に腕を掴まれ、半ば引き摺られる形で農地を後にする。
罵倒され、殴られ、蹴られ、男の八つ当たりの捌け口になる。それがここでのベロニカの日常で、逃れられない役割だった。
悲鳴をあげようとしても無駄なのだ。ベロニカの声はここ1年で失われてしまった。思い出すのはただ、あの日の赤。瓦礫に押しつぶされ、変わり果てた愛するひとの姿を幾度も悪夢に見た。自分さえいなければ二人は壁の近くにまで迎えに来ず、生き延びていられたかもしれない。両親が死んだのは自分のせいだと、何度己を責めたことだろう。
「お前は盗みもロクにできねぇ出来損ないだが、面は悪くない。今この瞬間、自分が一番不幸だと思ってる面だ」
農地から少し先にある人気のない小屋の裏手で、男はベロニカの髪を掴み上げた。地面に叩きつけられて、殴られた箇所を嬲るように足蹴にされる。げほ、と喉の奥から吐瀉物のようなものが出たのを見て男は笑っている。
「……そうだ、いっそのことお前を売っぱらっちまったほうが金になるかもな。汚らしいがこれでも女のガキだし、食いつく好きもんもいるかもしれねぇ。……あぁ、そりゃあいい案だ。それなら穀潰しでも俺の役に立ってくれるだろ」
殴られたばかりの頭でもう何も考えたくなくてぼんやりしていると、男がこちらに手を伸ばしてくる。服越しに太腿に触れた手つきに何をされそうになっているか悟り、せめてもの抵抗に手足をばたつかせる。
「色気のある声が出せないのがどうにも欠点だが、まぁ……なんとかなるだろう。安心しろよ、俺が色々と仕込んでやる」
痩せた体で大の大人の力を振り解くことなんてできなくて、絶望が胸をよぎり、両の目から静かに生暖かい液体がつうと頬を伝った。まだ自分に流す涙が残っているなんて思いもよらなかった。
――これは、きっと罰なのだろう。
この残酷な世界が嫌いだ。両親を喪い、汚いものばかりのこの世界を、ベロニカを美しいとは思えなかった。せっかく両親が守ってくれた命だというのに、生きたいと願うことすら、もう無理だ。
泣き声は誰にも届かない。助けてくれる人なんてどこにもいない。できることといえば耐えることだけ。でも平気なはずだ。だって今までだってそうだった、これ以上失うものなんてないのだから、耐えて、耐えて、耐えて耐えて耐えて――
「――おい!」
その時、少年の鋭い声が耳を打つ。男が手を止めたことでベロニカも伸び切った髪の隙間からその姿を見ることができた。「その子を離せよ」ベロニカより少し年上くらいだろうか、金髪で体格のいい彼はそう続けて、心底から嫌悪していると言わんばかりに男を睨め付けている。
「なんだあ?新入りのガキじゃねえか。テメェも殴られてえのか!?」
男が彼の胸ぐらを掴もうとする。
そこから先はあっという間だった。腕の間をすり抜けて下から思い切り体当たりを食らわせたかと思うといつのまにか少年は男をのしていて、ベロニカはただぺたりと地面に座り込んでそれを呆然と見ているだけだった。
「……ほら。顔を上げろ。立てるか?」
少年はズカズカと近づいてきて、眉を寄せてベロニカを見下ろした。その瞳には少し苛立たしげなものが混ざっている気がした。当たり前のように差し出された手のひらにおずおずと手を伸ばせば、ぐい、と力強く引っ張り上げられて、よろめきながら立ち上がる。
「痣が」少年は、掴んだベロニカの腕を見てぽつりと口にする。「……痣は、ひどくなる前に冷やしておいたほうがいい――」そうしているうちに小屋の向こうから足音が聞こえてきたと思うと、彼と同じくらいの年齢の黒髪の少年が息を切らしながら小走りで近づいてきた。
「き、君はまた無茶して……!」
「なんだよ、あんなの数のうちにも入らないって」
軽く息を切らしながら焦ったように口にする彼の言葉を軽く流す。
「それに収穫はあったぞ。見ろよ。証拠品ならこれで十分だろ」
金髪の少年は気絶した暴漢の足元に転がる金具を蹴り飛ばし、くいと親指で指して続けた。
「最近ここいらを騒がせてた強盗だ。こいつを監督役に突き出せば、俺たちの扱いも少しは良くなるだろ。うまくいけば、もっとマシな開拓地に行けるかもしれねぇ……」
金髪の彼はまたこちらに目線をやった。
息を呑む。貪欲な獣を思わせる金色の瞳。そこに潜むのは敵意に似て、ぎらぎらと、煮えたぎるような強い意志を秘めている。
鼓動が全身を突き動かす。世界が息を吹き返したかのようだった。胸のあたりをぎゅうと握りしめ、ベロニカはその感触を噛み締めた。
生きている。
誰もが自分のことだけで、他人を気にかける余裕なんてない。自分を含め、きっと誰しもがそうだ。現実から目を背け、下を向いて毎日を過ごしている。仕方ないと呪いのように呟いては、他人任せに何かに助けられるのを待っている。けれど彼は違う。彼はきっとここではない、どこか先を見据えている。その瞳が、ここで終わってたまるものかと訴えていた。この残酷な世界で、自分の力で、強かに生きようとしている。
――その揺るぎない強さが、欲しいと、そう思った。
我に帰る。そうだ、彼にお礼を言わなければ。何やら話しながら黒髪の少年と去っていこうとする彼に向かって、固まった喉を懸命に動かして、はくはくと声を出そうとする。久しく忘れていた、自分自身だけの欲求だった。
「……ぁ……あ、――あの!」
声が――出せた。ようやく、声が出せた。掠れた声で、それでも彼に届くように、できる限り声を張り上げて、それを口にした。
「……あり……がとう!」
必死にそう声を振り絞る。逆光の中で、少年はすこし驚いたようなそぶりで振り返った。金色の瞳が眇められ、すぐに目を逸らされる。
「……別にいい。当然のことだろ」
言い聞かせるみたいな口調でただ、そうぶっきらぼうにぽつりと呟いて、彼は去っていった。
◆◆
「問おう!貴様らは何しにここに来た!?」
新兵に問いかけられた質問に対し、前列にいた一人の少年が決意に満ちた太い声を上げる。
「――人類を救うためです!」
陽の光で煌めく見覚えのある金髪に、精悍な横顔。隊列の隙間からがっちりと引き締まった体格が見えた。
(……あの人だ……!)
歓喜に胸が高鳴る。ベロニカは知らず知らずのうちに緩みそうになった唇を慌てて引き結んで、しっかりと前を見据えた。
年月は経ち、新たな季節がやってくる。12歳になったベロニカは開拓地をあとにし、訓練兵を志願した。
兵士を目指したのは、強くなりたかったからだ。
1年前の自分は父と母を喪った絶望に打ちひしがれ、世界を憎むばかりで立ちあがろうとしなかった。だが、今は違う。あのときのように蹲り、なにもかも諦める無様はしない。
きっと彼のように強くなってみせる。
そして。
「貴様は何者だ!」
あの日掴んだ手のひらの温度を思い出し、心臓に置いた拳を強く握りしめて名乗る。
「シガンシナ区出身!ベロニカ・ファイトです!」
「ファイト!貴様は何しにここに来た!」
恫喝に怯みながらも、ベロニカは教官から目を逸らさず、腹から声を張り上げた。
「――故郷を奪還し!鎧の巨人を倒すためです!」
ベロニカ・ファイトは2年前のあの日、一度死んだ。
だが、再び生きる目的を得て、彼女の二度目の人生が始まる。