01 その日
- 時を告げる鐘の音が壁で区切られた青空に響く。
一人の少女が小さな包みを両腕に抱え、上機嫌な足取りで桟橋を走り抜ける。透き通った水面に映り込んだその影は、すぐさま魚がばしゃんと立てたさざなみに消えていった。
人類の領域が三重の壁の中に狭まり、100年余が経過した現在――845年。内地には栄えた工業都市も存在するが、その恩恵を受けられるのはわずかな住民のみだ。ウォール・ローゼより外側の住民は、なにか農具や機械の修繕が必要とあらば、市井で細々と営みを続ける職人に任せるのが一般的であった。
ベロニカ・ファイトもまた、そんな鍛冶屋の一人娘として生を受けた。〈ファイト〉と言えば、ここシガンシナ区では速さも技術も一番と名高い職人で、多くの住民から頼りにされている。そんな父を見て育ったベロニカにとっては、母の胎にいる頃から齢十に至るまで、鉄を打つ音色こそが無二の子守唄だった。
金属の加工とは、まさしく人類の叡智の結晶である。農具も武器も元はと言えば全ては鋼でできている。
ドロドロに溶けた鉄を型に流し込み、強く、ひたすらに打ち据えれば、いつのまにか新しい形が出来上がっていく。そうやって人々を笑顔にする道具が生まれ落ちる工程が、ベロニカは好きだった。
「いるんでしょー?ヨハン!」
家に帰宅した彼女は、声を上げながら戸を軽く叩く。ヨハンは長年父の弟子として同じ屋根の下で暮らしている青年の名前で、ベロニカも彼のことは兄のように慕っていた。だが、今日はどうも様子がおかしい。いつもならすぐに返答があるはずだが、いつまで経っても中から誰かが出てくる気配はなかった。
「ヨハン?」再度声をかけながら戸を開ける。部屋の中は無人で、ただ木造りの机とベッドがさみしく鎮座しているだけだ。
「あれ……いない」
今日は家にいるって言ってたんだけどなあ、と一人ごちる。もしかすると仕事場にいるのかもしれない。そう思ってたんたんと階段を降りて再び外へと向かう。向かう先は家のすぐ隣にある掘建小屋だ。
カァン、カァン、と空に向かい高く鳴り響く金属音。近づくにつれて大きくなる耳慣れたリズムとともに、ちらりと中を覗き込む。はたしてそこにいるのは父一人のようだった。背後に佇む人の気配に気付いたのか、父は一旦手を止め、手に巻いた布切れで汗を拭って入口を振り返る。
「……なんだ、お前か。仕事の邪魔をするくらいなら、とっと家に帰って母ちゃんの手伝いでもしてろ」
そっけない口調であしらわれるのはいつものことだ。彼はベロニカが仕事場へ近づくことに良い顔をした試しがない。それを流して、辺りをキョロキョロと見渡しながら父に問いかける。
「ねえ父さん、ヨハンを見た?うちにあるカップ、だいぶ古くなってたからさ。ヨハンの分も含めて新調したんだけど……」
「捨てておけ」
「……え?」
意表をつかれて目を丸くする。捨てておけ、とはどういうことなのだろう。ヨハンが今日どこにもいないのと何か関係があるのだろうか……?
「もう必要ない。あいつは破門にした」
「そんな……どうして!?父さんを見習って早く立派な職人になるんだって、あんなに毎日頑張ってたのに!」
唖然とする。彼は父にとっても長年手塩にかけて育ててきた弟子のはずだ。ついこの間まで笑いながら酒を酌み交わしていた相手を、どうして急に。
俄には信じられず食い下がるベロニカに対して、父は大きなため息をついた。不機嫌そうにガシガシと首の背をかくと、「いいか」と有無を言わせぬ冷たい口調で続ける。
「金に釣られて分不相応な仕事を引き受けてくる野郎に、目をかけてやる義理はない。しかもあんな、自己満足で見栄えしか考えてねえ、規格から大幅に逸脱した設計でだ。俺たち職人はただ客の注文に応えんのが仕事だ。それさえ出来ねえやつがどうして職人なんぞ名乗れる」
それが彼を破門にした理由だというのだろうか。ベロニカは咄嗟に言い返そうと言葉を探したが、結局ぐっと唇を食んで堪えた。
何を口にしたところで、何の技量も持ち合わせていない子供の主張に父が頷くわけがない。確かな実績を積み上げてきた父を間近で見てきたからこそ、今の自分ではそれを否定することはできないと、嫌というほど思い知っている。
「……父さんは傲慢だ!みんなは父さんのことを町で一番の鍛冶屋だって言うけど、私にとっては、もう違う!」
今のベロニカにできることといえばただ拙い言葉で父を非難することぐらいだ。捨て台詞のようにそれを一気に捲し立てると、苛立たしさと情けなさを胸に抱えたまま、一人小屋を飛び出した。
「また、随分とむくれちゃって」
「……むくれてなんかない」
「嘘おっしゃい」
家に帰宅したベロニカの表情を見て、母は何があったのかすぐに察したようだった。ベロニカが父と軽い言い争いになり、それを母が宥めるというのは最近では珍しくない光景になりつつある。母は笑って、娘のぷくりと膨らんだほっぺたを軽くつつく。ますます拗ねた態度になる娘のそばにしゃがみ込むと、優しい手つきで髪を梳いた。
「……ヨハンのことは残念だと思うけれど。分かってあげてね。あの人はただ、あなたに危ない目にあってほしくないだけなのよ」
母は目を伏せて、躊躇いがちに言葉を続ける。
「人一倍好奇心の強いあなたは納得できないでしょう。だけど、代々決まりごとを守っていくというのも、重要な使命の一つには違いないわ。それにね……あの人は何も言わないけど……職人の間じゃ有名な話よ。規格にそぐわない品を市場に出すと、憲兵に目をつけられてしまうこともあるって」
「どうして?職人が改良を続けていけば、今よりもっと便利になるし、畑を耕すのだって楽になる。それは人類の役に立つことじゃないの?」
そんなのは間違っていると思った。新しいものを考えて世の中に広めることが、幸せとは限らないなんて。
不満に思ってそう訊ねるも、母はただ、困ったような笑みを浮かべるだけだった。
「昨日言った通り私たちは出かけるけれど、帰ってきたら、ちゃんとお父さんと仲直りしなさいね」
「……はぁい」
優しい母にそう穏やかに撫でられてしまえば、言うことを聞くしかない。支度をして家を出ていく両親を見送ったあと、ベロニカは未だにもやもやとする気持ちのまま嘆息するのだった。
◆◆
今日はなんだか、カラスの鳴き声がやたらと大きく聞こえる。集中力が切れたタイミングでうーんと伸びをして、何度も読み終えた本を閉じて目を細める。すでに部屋の窓からはうっすらと橙色が差し込んでいて、ゆるやかに一日の終わりを告げようとしていた。
意味のある文字を追うという行為は、悩み事を払拭するのにちょうどよかった。一息つくと、次の本を探すべく自室に置かれた本棚に足を向ける。明らかに大人向けに設計されたそれは、まだベロニカの身長には少し高く、足場がなくては背が届かない。椅子に登り、さらに背伸びをしながら目当ての分厚い本を引っ張り出そうとした矢先、肘が硬いものに当たる感触とともに、横に積まれていた本の山が崩れた。
「うわ!……あーあ、やっちゃった……」
ドサドサといくつもの重たい物体が床を叩く音に首をすくめる。許容範囲を超えて本棚に並べていた自分が悪いのだが、今日はどうにもついていない日らしい。椅子から降り、肩を落としながら散乱した本を拾い集めようとして、ふと本の隙間から滑り落ちたものに気を取られて手が止まる。
「これって……」
それは1年か2年ほど前、家の書庫を漁っている最中に見つけた羊皮紙だ。年季が入り所々虫に食われてはいるが、本の奥に挟まれていたのもあってかそこまで劣化はしていない。折りたたまれた形状からして誰かから受け取った古い手紙のように見えたが、そこに書かれていたのは今まで見たことも聞いたこともない文字だった。
ベロニカの知る限り、その羊皮紙が挟まっていた技術書というのは相当古いものだ。おそらくは一族代々受け継がれてきた蔵書の一つである。これはかつて、人類が三重の壁を築く前に存在した古語なのだろうか?好奇心に胸を高鳴らせたベロニカは、保守的な父親に没収されないようにこっそりとそれを自室に持ち帰り、解読してみることにした。
繰り返し使われている文字を一覧にして書き出してみたり、知っている言葉に当てはめてみたりと、試行錯誤して未知の言語に向き合うこと数年。ついに成果が現れた。子供ながらに努力を重ねた結果、意味が通る文章が現れ始めたのだ。
しかし、結局そこに書かれていた内容というのは、何の変哲もない民話のようだった。それも「田舎娘が魔女の力で王子様の危機を助けて見そめられる」といったよくあるお伽噺だ。もしかしたら未知の技術について書かれていやしないだろうか、だなんて期待していた気持ちが裏切られ、大いにがっかりしたのは記憶に新しい。
……だがまあ、そんなこともある。誇るべきは得たものではなく、その過程である。もう気にしないようにしよう。
気を取り直して、拾い上げた技術書たちに纏わりついた埃を軽くはたいて落としていく。
(……父さんは私を否定してばかりで、何も教えてくれないけど、私にはここの本がある)
幸い、自宅には一介の鍛冶屋にしては立派すぎるほど読み物が揃っている。これほど恵まれた環境はここシガンシナ区でも珍しいほうだろう。本の背を指でなぞりながら、ベロニカは心の内で呟いた。
(うんと勉強してはやく一人前になるんだ。そうすれば父さんだって……)
その時、地を叩きつけるかのごとく激しい震動が空気を切り裂く。地鳴りで家がビリビリと震え、バランスを崩して転倒しそうになったところを、ベロニカは椅子を支えにして堪えた。
「な、なに!?」
部屋の奥で再び本棚から本が落下する音がしたが、なりふり構ってはいられない。慌てて家を飛び出した瞬間、ベロニカは己の目を疑った。
壁の上にかけられているのは――巨大な、五指だ。聳え立つ壁のむこう、蒸気で覆われた夕焼けの境界線にそれはいた。見るも悍ましいむき出しの肉。ぎょろりと剥かれた、人の何千倍もの大きさの黒い目玉が、人類の箱庭を見下ろしている。
「うそ……あれ、が……巨人……?」
愕然と呟く。あんなのは知らない。巨人というのは、せいぜい15mかそこらの生物だとこれまでの壁外調査で結論が出ていたはずだ。だが、その常識はたった今、ここで覆されようとしている。
この世のものとは思えない超大型の巨人が、蒸気を噴き上げながらゆっくりと上半身を傾けていく。操られたみたいにその光景から目を離せないでいると、凄まじい音と同時に壁の門が吹き飛んだ。
「……ッ!うあ!」
壁の破片が町全体に降り注ぐ衝撃で、ベロニカはよろめく。人類を守るはずの堅牢な砦。50mもの外壁。今、そこに穴が開けられた。
――巨人が、入ってくる。
初めに叫び声を上げたのは誰だったか。恐怖で張り詰めた空気。怯えた赤子の泣き声。恐慌状態はあっという間に群衆の間に広がり、足の動くものは我先にと駆け出した。その喧騒は川沿いの町外れに住むベロニカの元まで届く。そうだ、逃げなければ。ベロニカははっと我に帰り、混乱と恐怖で震える膝を叱咤して走り出す。父と母はもっと街の近いところにいるはずだから、自分より先に避難できているだろう。きっと無事だ。だからはやく探して追いつかないと。まずは、橋を渡り、大通りへ出て、それから。
思考がうまくまとまらないままに通りへ出ると、避難しようと押し寄せる人の波にわっと飲まれる。体躯の小さいベロニカはあっという間に突き飛ばされて地面に手をついた。
「い、たい……」
「――あ、ああっ!なに、なんで、いやぁ、離してぇえっ!!」
背後から悲痛な叫びが追ってくる。ベロニカはそれに一瞬はっと気を取られたが、後ろを振り向くことはなかった。ボギン、と嫌な音とともに悲鳴が途切れる。気づきたくなかった。知りたくなかった。見たくなかったのだ。あれは巨人の口腔で上半身と下半身が折られ、咀嚼される音だ。ベロニカは声にならない悲鳴を上げた。
地面で擦られた膝が痛い。うまく走れない。恐怖と焦燥感が胸をよぎり、それでも生存本能だけははっきり「ここから逃げろ」と訴えていて、ずるずると足を引きずって逃げようと試みる。ここはいやだ。何も為さないままここで食われて終わるなんて、そんなのは絶対にいやだ!その一心でひたすら足を動かし続ける。
町の外れからどれだけ走り続けただろうか。肺が悲鳴をあげている。汗や涙で目がかすむ中、目指していたウォール・マリアの象徴にようやく辿り着く。「おい、嬢ちゃん大丈夫か!早く中へ!」門を守る兵士がなにやら言い争っているのを横目に、一人の駐屯兵に急かされて内門の中に駆け込む。その時、向こう側から駆け寄ってくる父と母の姿が見えた。
「あ――」
息も絶え絶えのベロニカはなんとか両親の名を呼ぼうと口を開こうとする。やっとだ。やっと会えた。怖かった。けれどこれでもう安心だ。ようやく両親に再会できた安堵から涙ぐみ、父に手を伸ばす。
「――ベロニカ!!」
ドン、と強く突き飛ばされる感覚。その後襲った轟音とともに、ベロニカの視界は暗転した。
なにが起きたのか。地面に叩きつけられた全身は息をするたびにひどく痛んだ。事態を脳で把握するより先に、地から巻き上げられた赤銅色の空気にげほごほと咳き込みながら、ベロニカは体を起こす。
真っ先に目に飛び込んできたのは、あかくひしゃげた肉のかたまり。割れた瓦礫の隙間から見えるそれは人形みたいにぴくりとも動かないでいる。……? よくわからない。なぜ、目の前のこれは服を着ているのだろう。
「……父さん……、母さん……?」
自分の声がはっきり出ているのかも分からないまま、両親の名を呼ぶ。答えはない。でもどこかにいるはずだ。だって、さっきまで一緒にいたのだから。
「――!――……!……ウォール・マリアが!」
耳鳴りが徐々に収まると、人々の悲鳴がワッと一斉に耳に押し入った。「いや、やだよぉ、死、しぬ、れ、おれ……」助けを求める喘鳴が破壊と恐怖の喧騒で麻痺した耳に届き、茫然と隣に目を向ける。若い駐屯兵の腹には折れた梁が突き刺さっていて、ごぼりと誰かの名前らしき言葉を紡いだのを最後に動かなくなった。
降り注いだ壁の破片で倒壊した家屋が、土煙で滲んだ夕日に照らされている。なにかもわからないあかぐろいもの。びちゃりと飛び散っている生き物の顎は見慣れた肌の色をしていて、かろうじて原型をとどめている■は昼間自分の頭を優しく撫でてくれた■の――
――それの噛み合う口元が開かれ、一息に蒸気を吐き出すのが、はっきりと見えた。岩肌のような皮膚。煌々と鈍色に輝く瞳。壁を破ったというのに、傷ひとつない肉体から石礫がパラパラと降ってくる。腿の筋肉の繊維をぐぅと収縮させ、錻のごとく軋む音を立ててゆっくりと上体を起こしたそれは、足元の人間に目もくれもせず、再び歩みを開始した。巨体が踏み出す一歩の振動が地面を通して体にビリビリと伝わる。
「――待って」
一瞬でベロニカの人生を踏み躙った巨人は、こちらを見向きもしないで歩き去っていく。あてもなく伸ばされた手は何も掴むことなく、力なく地べたに落ちた。
そこから先は、思い出すのも忌まわしい地獄の連続だった。シガンシナ区外門だけならいざ知らず、内門までもあの奇行種――〈鎧の巨人〉に破壊されたということ。これが決定打となった。人類に次から次へと侵入してくる巨人を全て駆逐する術はなく、やがて奮戦虚しく、ウォール・マリア内全域の支配権を巨人に明け渡すこととなる。
巨人侵入の知らせがいち早く届いた地域では、住民同士の避難経路の奪い合いが起こった。馬は真っ先に略奪の対象となり、船着場ではウォール・ローゼに向かう便に縋り付こうとして命を落とす者さえいたという。だがその間にも巨人は次々と来襲し、逃げ遅れた住民同様、船を死守せんとする兵士の多くが食われていく。ベロニカもまた船に乗れず、ただ兵士に誘導されるがままウォール・ローゼを目指すことしかできなかった群衆の一人だった。だが、折よく先の壁外調査で生き残った調査兵団が到着し、トロスト区の外門が開かれたことで、辛くも生き延びたのである。
夜半の避難所は、嘆きの呻きと啜り泣く声で満たされている。毛布に包まり悪夢に魘される老婆。頭を抱えたまま動かない男。身を寄せ、抱き合って眠る子供たち。その中でベロニカは、瞬きさえ忘れて窓の外を見ていた。
全てを壊された。両親も、家も、夢も、なにもかも。一番星が煌めく宵の空を見上げる瞳には、最早何も映ってはいない。
その日。
たしかに、ベロニカ・ファイトは死んだのだ。