どろだらけでも
- 「痛ってぇ……あいつ本当、手加減とかねぇのかよ」
訓練終わりの食堂はがやがやと世間話で盛り上がっている。ベロニカの向かいに座っていたエレンが背中をさすり、げんなりとした顔でため息をついた。対人格闘術の訓練でエレンがよくアニにバシンと地面に投げ飛ばされている光景は、最近すっかり珍しくないものとなっていた。
「痛そうだもんなぁ、あれ……でもエレンの成績はどんどん上がってるよね。前よりずっと強くなってる」
「そりゃあれだけ投げ飛ばされたら嫌でもな」
肩をすくめるエレンを横にベロニカはちらりとアニに視線を向ける。
同じ女子部屋で過ごす仲間とはいえ、アニはあまり周囲と関わりを持とうとするタイプではなく、ベロニカも自主的に話かけにいくようなことはなかった。うっすら向こうから避けられているような気すらしていたくらいだ。だが、彼女はミカサと同様実力者の一人であり、独自の技術を使いこなして男子にも負けない圧倒的な強さを誇っている。そんなふうに強くなるにはいったいどうしたらいいのか……。ベロニカは咀嚼していたパンをごくりと飲み込んでよし、と頷いた。
「私も今度アニに頼んでみようかな」
そう口にすると、エレンは顔を引き攣らせる。
「いや、確かにあいつはすっげぇ強いけど……投げられるのもすっげぇ痛いぞ……?」
言葉通りだった。
確かに痛いだろうなと思っていたが、思っていたよりずっとものすごく痛い。背中を思い切り強打して呻くベロニカを見下ろして、「もういいかい?」とアニは冷ややかな視線を落として立ち去っていく。
明らかに鬱陶しそうな顔をしたアニに、投げてくれるだけでも!当番代わるから!と頭を下げて、なんとか無理やり了承をもぎ取ることに成功したもののこの有様である。
こういうのはきっと見て覚えるしかないと決意と共にごくりと唾を飲み込むベロニカに対して、アニがスッと拳を構えた。なるほど構えはこうで足の角度は、などと思考を走らせた次の瞬間、何が起きたかも分からないうちに天地がひっくり返って倒れ伏していた。
うぐぐと呻きながら地面でのたうち回っていると、エレンが呆れ顔のままこちらを覗き込む。
「オーイ、大丈夫か?どうだ?起き上がれるか?」
「強……烈……」
「だろうな。ライナーみたいな図体でも軽々と投げ飛ばすやつだ、今の俺たちじゃ敵わねぇよ……」
その通りである。が、あれだけ強いならますます挑戦しがいもあるというものだ。ベロニカは腰を撫で付けながらむくりと起き上がってつぶやいた。
「次は何か掴めるかもしれない。また頼んでみる」
「……お前、すげぇな」
次の週の対人格闘訓練にて、また相手をしてくれないかとアニに頼み込んでみると、彼女はベロニカに対して鋭い視線を向けた。
「……悪いけど、あんたはこの技に向いてない。教えを請われたってこれ以上無駄な努力に付き合ってやる義理は私にはない……他を当たりな」
視線同様に鋭い言葉になんと返していいか戸惑う。これは……思ったよりだいぶ嫌われているのでは?とベロニカは萎縮した気持ちになった。関わり合いになりたくないと言わんばかりにこちらを拒否する姿勢を崩さないアニにとって、ベロニカの頼み事というのは迷惑千番に違いない。けれど。迷いながら、それでもベロニカは言葉を返した。
「……確かに、私じゃアニの技は習得できないかもしれない。でも自分よりはるかに強い相手と戦う訓練にはなる。無駄ってことはないよ。……だからお願い。この訓練の間、一回投げるだけでもいいから付き合ってほしい。見返りならなんでもする」
ばっと頭を下げ、譲るつもりのなさそうな態度のベロニカを一瞥し、アニは嘆息する。
「……分かった。そこまで言うんなら投げ飛ばすくらいはやってやってもいい。……ただし。今後は手加減抜きでだ――あんたの気が済むまで、やってあげる」
その後、ベロニカは言葉通り地面に投げ飛ばされ続けた。立ち上がるとまた容赦ない蹴りが襲ってくる。腕を絡め取られて地に叩きつけられる。そんなことを何度か繰り返すうちに、異様な雰囲気を感じたのか、周囲もなんだなんだとこちらに視線を向け始めた。
「う……うッ……!!」
アニの腕の中で動けずに喘ぐような呼吸を繰り返していると、「痛いだろ?」と嗜虐を含んだ声音が耳元で囁かれる。
「私は性根が腐りきってるから……あんたみたいなお人好し気取りの、努力してる自分に酔いしれてるバカを見ていると無性に虫唾が走る……」
ぱっと手放されて肩で息をするベロニカをアニは黙って見下ろしている。あまりにも違いすぎる実力の差によって、いつのまにか二人の訓練は弱いものいじめのようにすら見えていた。それを見かねてかライナーが声をあげる。
「アニ!もういいだろ。こいつはもうとても動ける状態じゃない。教官が戻ってくる前にやめにしておけ」
「……どうして?いつも訓練を真面目にやれって言うのはあんたの方じゃないか」
皮肉げに吐き捨てたアニの横で、ベロニカは体を持ち上げてガッと地に落ちた木剣を拾い上げた。
「お、おい!ベロニカ、まだやる気か!?」
「ライナー、いいの。これは私が頼んでやってもらってるんだから……」
泥で汚れた兵団服もそのままに、よろめきながら立ち上がる。だがその視線は決してアニから逸らされることはなく、闘志に燃えていた。
「――手を、出さないでよ」
結局ベロニカとアニの訓練は、本当にベロニカが地面から一センチも体を動かせなくなるまで続けられた。
「いっっ……たぁぁ……」
完敗とはまさにこのためにある言葉だろう。力尽き、弱々しく言葉を紡ぐことしかできなくなったベロニカの上から「これに懲りたら、二度と私に頼み事なんてしようと思わないことだね」と声が降ってくる。地べたに転がりながらベロニカは清々しく笑った。
「ありがとう、アニ。手加減してくれなくて嬉しかった」
「……そう。」
ふいと横を向いたアニの横顔は依然として冷たかったが、その口角がほんの少しだけ上がっているのをベロニカは見逃さなかった。
「……あんたは弱いけど、最後まで降参しなかった。その根性だけは認めるよ」
そう言い残して立ち去っていくアニの後ろ姿を眺めていたベロニカの横に大柄な影が落ちる。
「ほら、掴まれ。ったく……訓練に直向きなのはいいことだが動けなくなるまでやるなんて。痣だらけじゃねぇか」
無茶しすぎだと言わんばかりに潜められた眉に、このお叱りは長くなるに違いないとベロニカは思う。それでも心配して手を貸してくれるのが嬉しくて、緩む口元を抑えきれずにいると、「何笑ってんだ?ちゃんと聞いてるのか?」とむっとした口調が返ってきた。
「ううん、なんでもないよ」
どこまでも遠く広がる青空を見上げて、晴れやかな気持ちでベロニカは彼の手を握り返した。
ねえ、ライナー。いつかきっときみみたいに強くなってみせるから、だから待っていて。