ごまかしごまかし
- 「ライナー、ちょっと頼み事してもいいかな?」
自主訓練が一段落つき、休憩を挟んでいるといつのまにか聞き慣れたやわらかい声音が耳に入ってきた。ベロニカを見下ろし、「俺にできることなら構わないが」とライナーは深く考えずに返す。なんてことはないいつも通りのやりとりだ。だが、その次に彼女の口から飛び出した言葉にライナーはずっこけそうになる。
「頭を撫でさせてほしい」
「は?」
我ながら渾身の「は?」が出た。よくわからん。なぜ。困惑の気配を感じ取ったのか、「待って、弁明させて」ベロニカは慌てて至極真剣な表情を作ってみせた。
「ライナーがたまに私の頭撫でてくるからさ……。そんなに心地いいのかなって思って。私の背がそんなに高くないからってのもあると思うんだけど、あんまり人の頭って撫でたことないなって。犬とか猫はあるんだけどね」
おい、犬と猫と俺を並べるな。そう思ったが、自分もベロニカを犬みたいだとか思ってついわしゃわしゃと撫でていることを思い出し、ライナーは口をつぐんだ。
フランツとハンナが付き合い始めたあたりから、卒業を前にしてか、ここのところ同期全体に浮ついた甘ったるい雰囲気が漂っている。表面こそ男連中にも手伝ってくれと泣きつかれて世話を焼いてやったりもしたが、正直、自分ごととなるとかなり辟易としたものを感じる。この壁の中において憲兵団のステータスは価値が高く、明らかにそれ目的で成績優秀者をつけ狙っているのだろうと分かる女も幾人かいた。はじめのほうこそ異性に言い寄られるのは悪い気分ではなかったが、丁重にお断りするのももう何回目だという話だ。
その点ベロニカといるのは楽だった。1年目こそお前ら森で毎日毎日何をしてるんだとめざといやつらにしつこく問い詰められたことはあったが、その度に二人してそんな浮ついた関係じゃない、ないったらないと声を大にして否定し続けていたので、からかってくるやつもなりを潜めていた。努力の甲斐あってか、今や周囲からは師匠と弟子のような関係だと認知されているようだ。何事も真面目に励むベロニカと共にいれば、自分も兵士としての訓練に大いに集中できるというのはライナーにとっても有り難い環境だった。
……こうして時折突拍子もないことを言ったりもすることもあるが。多分本人からしたら好奇心に従った結果であって、大真面目なのだろうとライナーは微妙に呆れたまなざしをベロニカに送る。
というかお願いの形をとっているが、じぃ、とこちらを見上げる視線からは明らかに、「ライナーだってよく私の頭を撫でてるんだから、一回くらいはいいのでは?」という期待がちっとも隠せていない。その変な情熱はどこからくるのか。ライナーは嘆息した。
まぁ、それでこいつの気が済むなら一回くらいは付き合ってやるか。ライナーは腕組みを解き、スッとしゃがみ込んでベロニカと視線を合わせる。
「ほら。好きにしていいぞ」
ベロニカはぱっと表情を輝かせた。
「やった!いつも見上げてるから、ライナーの顔が下にあるって不思議な感じ」
自分と比べたら2分の1のサイズしかなさそうな小さい手が伸びてきて、頭に触れた。「結構やわらかいんだなぁ」と興味深げにつぶやいたベロニカとの距離は確かに、いつもより近い。
「……。俺の頭なんて触って楽しいのか……?」
「楽しいよ?」
「そうか……」
ライナーの心中に想定していなかった妙な気恥ずかしさがむくむくと湧き上がる。子供の頃はともかくなにしろ今はこの図体だ、よく考えたら頭を撫でられるのなんてひさしぶりだった。ふわふわとやさしく短い髪をかきまぜられる。あたたかい手のひらがする、と前髪から後頭部にかけて降りてきて、案外心地よい……。
いや待て。この状況はなんというか、ダメな気がする。
ふと、ここには自分たち以外誰もいないという事実に思い当たり、いたたまれない感情が呼び起こされる。人肌がやわらかく耳や首を掠めた感触に背筋がぞわぞわして、ライナーは思わずグッと歯を噛み締めた。なにをしてるんだ俺たちは。我に帰ったライナーはぱっとベロニカの手を引き剥がして顔を背ける。
「もういいだろ……」
「えー」
「えーじゃない、休憩は終わりだ。もう一周しないといつもの目標に届かねぇぞ」
小言を言いながら軽く小突くとベロニカは額を抑えながら口を尖らせ、そのあと満足げににへっと口元をゆるめた。
「わかった、わかったよ。じゃあ行ってくるね!」
パッとアンカーを射出して上機嫌に飛び出していった小さな背を見送り、ライナーは眉間を押さえて大きなため息をこぼした。とんだ茶番に付き合ってしまって、なんだか下手な訓練よりもドッと疲れが襲ってくる。
はやく忘れちまえ。さっきの感触が蘇ってきて、ライナーはぶるりと頭を振り、眉元にぐっと力を入れて明日の訓練の段取りについて思考を切り替える。いつもよりすこしばかり顔があつい気がするのも、きっとこの眩しすぎる夕陽のせいである。