09 疑心
- 多くの痛手を被った第57回壁外調査から帰還してすぐ、104期はウォール・ローゼ南区の施設で数日間の私服での待機を命じられた。休む暇もなく続いた戦闘で疲弊しきった体にとって一時の休息はありがたかったが、それ以上にベロニカにとっては気掛かりなことが多く、気もそぞろで手元の本の内容にもいまいち集中できない。
「こっからだと俺の村が近いんだぜ」
「私の故郷も近いですねー」
コニーとサシャの会話が耳に入ってきて、ベロニカは目を上げてちらりと窓の方を見る。そちら側ではライナーとベルトルトがチェスを行っていて、なかなかいい勝負をしているようだった。その様子をしばし眺めつつ、ベロニカの脳裏に依然としてよぎるのは壁外調査以前より漠然と持っていた疑念だ。エレンと同じく、巨人化能力を持つ人間――それがすでに兵団内に紛れ込んでいる可能性。エレンの位置の情報で兵団内部を分断したことに加え、この非武装での待機命令。ここまで来ればようやく確信が持てた。エルヴィン団長はおそらく、その容疑者が104期の中にいると疑っているのだと。
(この中に、本当に……?)
ベロニカは気取られないように、同期一人一人に視線をやる。3年間苦楽を共にしてきた大事な仲間たちだ。その中にもし、万が一にでも、人の皮を被った殺人鬼が紛れ込んでいたならば――そう考えるだけで胃が竦むような思いになる。願わくば団長の思い過ごしであってほしいが、否定する材料がないのもまた事実だった。
「ベロニカ、お前も変だと思うだろ?」
この状況がいかに異質であるかをコニーに説いていたライナーから話を振られたベロニカは目を瞬かせて、困惑まじりに「うん」と小さく頷きながらぱたんと本を閉じる。
「エレンの動向も心配だし、アルミンたちをはじめ何人かの同期もいないよね。正直、どういう意図なのか決めあぐねてる」
「ほらみろ。みんなワケがわからなくて困惑してる。呑気にくつろいでんのはお前らだけだよ。いっそ抜け出して上官の反応でも伺いたい気分だ」
抜け出しに妙に乗り気な様子のライナーを見てベロニカは怪訝な表情を浮かべた。兵士として待機命令が出ている以上、これ以上怪しまれるような行為は避けるべきだし、冷静なライナーにしては得策とは思えない。流石にそれはまずいんじゃと内心思っていると、ライナーの方から「それとベロニカ」と彼女に向き直った。
「お前は何か言いたいことがあるならはっきり言え」
「え?」
「え、じゃない」ライナーはわずかに機嫌を損ねたように眉を寄せ、しかめっ面のまま続ける。
「お前、帰ってきてからこっちずっと上の空だし、俺のことも避けてるだろ。あのことを気にしてるんならべつに気に病む必要はない。さっさと忘れちまえ」
一息にそう口にした後、一瞬言葉を切り、ライナーは切れ長の目を軽く細めた。
「――それとも、他に俺が何かしたか?」
いつもとは異なり、妙に迫力のある視線にベロニカは思わずごくりと唾を飲む。迷いながら言葉を返そうとした瞬間、机に突っ伏していたサシャが「あれ!?」と素っ頓狂な声を上げながらがばりと上体を起こした。
「足音みたいな地鳴りが聞こえます!」
大声でそう告げたサシャに一気に一同の視線が集まる。
「……何言ってんだサシャ?ここに巨人がいるって言いたいんなら、そりゃ……ウォール・ローゼが破壊されたってことだぞ?」
「本当です!確かに足音が!」
焦ったように手を上下に振るサシャがそれを言い終えないうちに、窓の向こうに人影が現れた。「全員いるか?」窓枠に足をかけながら部屋の中にいた新兵にそう問いかけたのは、調査兵団の精鋭の一人であるナナバだ。
「500m先南方より巨人が多数接近。こっちに向かって歩いてきてる。君達に戦闘服を着せてるヒマは無い――直ちに馬に乗り、付近の民家や集落を走りまわって避難させなさい。いいね?」
信じがたい言葉に場の空気が凍る。ウォール・ローゼ内に巨人が現れた。その事実が示すのは、つまり――「壁が……壊されたってことなのか……?」ベルトルトと顔を見合わせたライナーが緊迫した面持ちで口にした。
「残念だけど仕事が終わるまで昼飯はお預けだ!さぁ、動いて!ぼけっとしてられるのも生きてる間だけだよ!」
鋭いナナバの一声で、新兵たちは慌てて銘々に立ち上がる。倉庫から鞍を持ち出し、馬を引いて出立の支度を整えながらベロニカの心臓はドクドクと嫌な音を立てていた。すでに巨人がここまで到達しているということは、南方……コニーの村がある方角の民間人の被害は計り知れない。それに避難誘導の最中、武装もなしに巨人に遭遇したら。嫌な憶測と予感がよぎるのを振り払うようにして、鐙に足を乗せる。
馬を走らせていると、巨人の群れが林の向こう側からやってきているのがはっきりと視認できた。いち早く情報の拡散に努めるためにも、104期と武装兵で構成した東西南北の班に分かれることとなり、「誰かこの地域に詳しい者はいるか!?」と先陣を切るミケが背後に呼びかける。
「は、はい!北の森に故郷があります!そのあたりの地形は知ってます!あと、コニーも……」
サシャがコニーの方に視線をやる。コニーは「南に俺の村があります。巨人が、来た方向に……」と顔を青ざめさせながら口にした。
「近くの村を案内できます。その後、俺の村に行かせて下さい。そりゃ……もう行ったところで、もう無駄でしょうけど……。けど、行かなきゃいけないんです」
「分かった。南班の案内は任せたぞ」
「コニー、俺も行く」続いてそう口にしたのはライナーだ。ベルトルトと共に南班に行く決心を固めた様子のライナーの横で、ベロニカも声を張り上げた。
「ミケさん、私も行かせてください!」
「は……?お前、南は危険だって分かって……」
「だからだよ!人数が必要って言ったのはライナーでしょ!」
戦闘で役に立てなくとも、逃げ遅れた人を一人でも多く助けるためにも、連絡要員はどれだけいてもいいはずだ。家族が命の危機に瀕しているかもしれないと急くコニーの焦燥はよく理解できる。自分も何か少しでも助けになりたいと、ベロニカも必死で目で訴える。ライナーが何か言いたげに口を開こうとしたが、それは巨人の群れが林に到達したことで中断されてしまった。
各班が離散しようとした瞬間、大地を蹴る音が空気を裂いた。巨人が一斉にこちら側に向かって走り出す。馬の足にも追いつかんばかりの異常な速度だった。「ゲルガー!南班はお前に任せた!」そう鋭く指示を残し、ミケが自らを方向転換させて巨人へと馬を走らせる。ミケに南班を託されたゲルガーとリーネ、そして4人の104期たちは一人で巨人に立ち向かっていくその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
◆◆
「待てコニー!落ち着け!」
ライナーが先を突っ走るコニーを制止する。「どこに巨人がいるか分からんぞ!一旦下がれ!」彼はその言葉に耳を傾けることなく村に突っ込み、真っ青な顔で周囲を見渡した。
「嘘だろ……誰か……誰かいないか!?……俺だ!コニーだ!帰ってきたぞ!!」
コニーの悲痛な呼び声が村に反響する。答えはない。そこにはただ無情に蹂躙された故郷のみが広がっている。記憶を辿り、ただ家族の無事を一心に願いながら生まれ育った家の前に辿り着いたコニーは、目に飛び込んできた光景に凍りついた。
「コニー、下がれ!」
「お……俺の、家だ……俺の……」
コニーとライナーに追いついた場所でベロニカもまたそれを目にし、息を飲む。巨人だ。巨人が屋根の上でひっくり返ったままこちらの動きをぎょろついた瞳で追いかけていた。「お前らは下がってろ!」ゲルガーとリーネがブレードを抜いて巨人との戦闘体制に入るも、すぐにその異様さに気づいて馬を止めた。
「待て!こいつ……動けないのか!?あの手足では無理だろう!」
巨人の姿をまじまじと見つめる。ゲルガーの言う通り、その巨人は家に嵌った状態のままほとんど動けないようだった。この長細い手足では質量を支え、地を這いずることすら難しいだろう。胴体は一部骨すら剥き出しになっていて、まるで不完全な変態で放置された昆虫の姿を思わせた。
「じゃあ……こいつ、どうやってここまで来たんだ?」
不気味な沈黙が降りる。ゲルガーがぽつりとこぼした呟きが、破壊され尽くした家屋の間に虚しく響いた。
「……一通り走り回って確認したけど、この付近には他に巨人の気配はないようだ。ひとまず馬を置いて二手に分かれよう。君たちは引き続き周辺を捜索、私たち3人は再び村の奥を一周する。松明の調達も忘れずにね」
「了解です」
リーネに指示を受けたベロニカはこくりと頷いて返事をし、捜索を続けた。松明になりそうな木材を回収しつつ、生存者の姿を探すが、人の気配はどこにも感じられない。足元の瓦礫を跨いで民家の中を覗き込む。日が遮られたがらんどうの空間に広がるのはただ、崩れた木と石、家具、食卓だったものばかりだ。
(……やっぱり……なにかが変だ)
異質さを感じとったベロニカはひとり眉を顰めた。巨人が街に押し寄せればどうなるかはよく知っている。記憶に焼きついた、あの血の記憶を忘れたことはない。考えたくはないが、人間が瓦礫に押し潰されたり、巨人に食われたりすれば、必ず血の染みが地面に広がり、食べ残しが転がっているはずだ。それなのに、これだけ民家が破壊されているにもかかわらず血の気配ひとつすらないなんてことがあり得るのだろうか。屋根がところどころ残り、踏み潰されたにしては違和感のある破壊跡もまた不気味に思えた。
「おいこれ……!二人とも、来てくれ!」
ゲルガーの呼びかけで、慌てて破壊された民家を潜り抜けてそちらへ向かう。道すがら、風に乗ってブルルン、という馬のいななきが耳に入ってきてベロニカははっと顔を上げた。自分たちが乗ってきた個体ではない、馬の鳴き声。ゲルガーがベロニカたちを呼び寄せたのは馬小屋で、民家から少し外れた場所にあるためか破壊の跡が少ないように見受けられた。異様だったのは、まるでそこだけ何事もなかったかのように、ほとんど逃げることなく馬がずらりと並んでいることだ。
「馬が、繋がれっぱなしになってる……!?」
「え?……だって、おかしい……ですよね?巨人が襲ってきたならまず真っ先に馬を出しにくるはず。普通ならこんな数が残ってるはずがないのに」
「ああ。馬なしで巨人から逃げても生き延びていられる確率は相当低い。……それに、血痕ひとつ見つからないなんてことがあり得るのか?」
リーネは周りを見渡して一人ごちる。
「この村に一体、何があったんだ……?」
前例のないことばかりが起きている。答えを見つけられないことに対して、ベロニカはもどかしさを覚えた。先ほど見たあの巨人についてもそうだ。空から降ってきた訳でもあるまいし、他の巨人に投げ捨てられでもしたのか?何故あの場所にいたのか、どうしてもその理由を考えずにはいられなかった。だって巨人が何もいないところから生えてくるはずもない。何もいないところから。何も――。
いいや、違う。いたではないか。
巨人が現れる前にそこにいたはずのもの。そして今は不自然な痕跡だけを残してここにいないもの。村の住民たち――人間が。
その考えに思い当たり、ベロニカは凍りついた。
知性巨人……エレンのように巨人化能力を持つ人間が他にもいる可能性は著しく高い。それは彼らが特別なだけだとどこかで思いこんでいた。
けれど、その前提が間違っていたら?彼らはただその力を自覚的に発動するトリガーを得ただけで、本当は、人類すべてが巨人になる潜在的な可能性を秘めているのだとしたら?
思い浮かんだ仮定に血の気が引く。あり得ない。ここにいた村人が、巨人になったかもしれないだなんて。馬鹿げた空想だと一蹴したかったが、こうもあり得ないことが立て続けに起きては、その根幹すら揺らぐようだった。
「ベロニカ。この件はひとまず目撃した我々だけのうちに留めておこう。今は壁の穴の調査の方が先決だ……」
村人の生存の確率が薄いというのを、今のコニーに知らせるのも酷な話だ。ベロニカは冷や汗をかきながら頷く。
(たぶん、この推論は誰にも話すべきじゃない)
自分の考えが正しいのか、間違っているのか、今の状況では突き止めようもない。信用できる誰か――できればエルヴィン団長にだけ報告すべきだ。そう結論づけて、出立の準備をすべくベロニカは思考を打ち切った。