08 初陣
- 蹄鉄から土を飛ばし、地を駆ける振動と獣の息遣いが全身に伝わる。馬を走らせて小一時間ほどが経つ中、ベロニカの属する左翼次列・伝達班は順調に行路を進んでいた。
一行が通り過ぎるのは、5年前に放棄された家屋が立ち並ぶ区画。荒れ果てた廃屋の影に座り込む巨体を目にし、ベロニカは息を呑んだ。咄嗟のことに銃把を汗で滑らせそうになりながら、なんとか赤い信煙弾を高く打ち上げて声を張り上げる。
「……ッ巨人発見!5m級です!」
ご丁寧にも屋根の下で寛いでいたらしい5m級の巨人は、人間の気配に反応してぎゅるんとこちら側へと目を向けた。緩慢に手足をばたつかせ、屋根をバキバキと割りながら全身を表へと露出させる。
「クソ!索敵の取りこぼしか!」
班長は忌々しそうに舌打ちをした。「散れ!」手綱を引き、掛け声と共に突っ込んできた巨人を避ける。勢いよく獲物に抱きつこうとしたひょろ長い手が空を切り、そのまま頭から地面に突っ込む。ずりずりと蠢きながら尚も追ってくる巨人に、一人が「また突進してきます!」と声をあげた。
「追ってこられても面倒だ。ここで片付けるぞ!」
刃を腰から引き抜き、班長と数名の兵士が馬の背から巨人に向かって一斉に飛んだ。ワイヤーを巻き付け、あっという間に足の腱を切って動きを封じていく。その熟練した動きに感嘆していると、別の方向からも悲鳴が上がった。
「あ、ああ!?もう一匹……!?」
瓦礫の死角から伸びる巨大な肌色。腕だけが異様に長いその巨人は、剥き出した歯をがちがちと鳴らして一人の班員に左手を伸ばした。
「ひ――」
それを目にした瞬間、ベロニカの体は驚くほど咄嗟に動いていた。一気にガスを射出したことで腰がぐんと引っ張られる。視界いっぱいに広がる青空。「――あぁッ!!」その勢いのまま一回転し、刃をしならせて肩の肉を削ぐ。
「――はあ、はぁ……っ!」
剣の柄でワイヤーを巻き取り、よろめきながら地に足をつけた瞬間、ドッ、と嫌な汗が吹き出した。「お前ら無事か!?こっちにもいやがったのか……!」一匹目を片付けた先達たちが号令とともに再び巨人に向かい、ベロニカは息を整えながら安堵まじりにほっと息をつく。うなじを切り落とされ、沈黙した2体の巨体がジュウジュウと音を立てて蒸発していくのを横目に、班長は「危なかった……」と深いため息をついた。そしてベロニカの肩を軽く叩いて続ける。
「無茶をしやがってと言いたいところだが、初めてにしちゃなかなか良い動きだった。今のは討伐補佐数にいれとけよ」
「……!はい!」
幾度の死線を潜り抜けてきたであろう先達の言葉に勇気づけられ、ベロニカは力強く頷いた。初めて実戦で巨人に攻撃を当てることができた。これもまたライナーに訓練に付き合ってもらっていた成果だ、と内心でライナーに深く感謝する。
優秀な兵士からしたらささいな出来事だろう。けれど非力な自分は、こうして着実に一歩一歩成長していくしかない。
(……大丈夫。ちゃんと戦える)
逸る気持ちを抑えてベロニカは柄を握りしめる。なんとしても今日というこの日を生き伸びて、そしてまた、彼に会うのだ。
◆◆
上首尾に思われていた行路は、右翼側壊滅の報が届いたことにより一気に緊迫したものとなった。陣形のそこかしこから上がる煙弾が、精鋭を退けるほどの巨人の大群と奇行種の存在を示している。だが、明らかに作戦続行不可能な痛手を被っているにもかかわらず、それでもなお撤退命令は下されない。前進の指示に従って他の班とも合流したベロニカたちは、巨大樹の森の中央を避けるように回り込み、巨人を内に入れないよう木の上での待機を命じられた。
「さっきから後ろがうるせぇな。なぁ?ベルトルさん、クリスタがどの辺に行ったか知らない?」
「ごめん……知らない」
ユミルとベルトルトの会話が耳に入ってくる。ベロニカは下にいる巨人の動きを警戒しながら、ちらりと後方に視線をやる。森の奥、背後からたびたび聞こえてくる爆発音の正体が気になって仕方がなかった。
「この音、大砲か何かなのかな」
本作戦には一般の兵士には知らされていない点が山ほどある。その意図を探ろうと、ベロニカはしばし考え込んだ。これまでの動きから、どうやら団長は森の中で優位に動けると確信した上で敵を追い込もうとしていたように見える。
(……追い込むって、何を?)
調査兵団が不在な時期を見計らったかのように突如として現れ、壁だけを破壊した超大型巨人。巨人の被験体殺しの犯人がまだ見つかっていないこと。断定はできない。だが、巨人になれる人間がすでに壁の中に紛れ込んでいてもおかしくないのでは、という考えが再びベロニカの脳裏をよぎる。
(巨人は右翼側……私たちがエレンがいると知らされていた方向からやって来た。兵団内に内通者がいる可能性に賭けて、通達段階ですでに偽の情報を紛れこませていたんだ。)
だとしても、内通者が本当にいるかも分からない状況下、危険地帯で兵士間の情報を分断するなんてあまりにもリスクの大きい賭けだ。実際に今回の作戦では多数の兵士が犠牲になっている。その命を天秤にかけてでも敵を炙り出すことを選択した判断には恐ろしさすら覚えるが、それでも、襲撃者の尻尾を掴めたのなら僥倖だ。
とにかく、敵の正体がなんであれ兵士である以上は上官を信じて命令に従うしかないと気を引き締めたその時。怖気立つような甲高い叫びが鼓膜を貫き、反射的に身構える。「……!?」森中に響き渡った断末魔じみたそれが全身にビリビリと伝わる。
一体、森の奥で何が起きている?不安を募らせていると、焦った声が耳に届いた。
「おいおいおい、なんでだよ!?なんで巨人が俺たちを無視して一斉に……!」
ぞわりと鳥肌が立つ。先ほどまで人の気配のある周囲をうろつくか、木を登ってくるかしていた巨人たちの動きが明らかに変質していた。こちらへは見向きもせず一心不乱に森の奥へと駆け出し始めたのだ。
(今の叫び、まさか援軍を!?まずい、止めないと!)
他の兵士と同様、ベロニカも巨人を食い止めるべく木を蹴って空中へと飛び出した。木々の合間を縫って飛びながら素早く周囲の状況を見る。「また戦闘かよクソったれ……!」悪態をつくユミル、そして近くにいたベルトルトに向かってベロニカは声を上げた。
「二人とも、ここは役割を分担しよう!私は足を重点的に狙う。ユミルとベルトルトは一匹でも多くうなじを仕留めてほしい!」
「なんだベロニカ、お前が仕切るつもりか?」ユミルは気に食わなさそうにフンと鼻を鳴らした。「あいつの真似事か何か知らんが、まあ、ここを切り抜けねぇと帰れなさそうだしな。今回だけは乗ってやる」その横で、先ほどから顔色のよくないベルトルトもまた、「あ、ああ……分かった」と言葉少なげに了承した。
前方にはぐらぐらと上体を不安定に振りながら地を揺らす巨人の姿。その太腿にアンカーを射ち込み、ガスを強く噴出させて一気に急降下する。「止まれ!」しならせた刃が肉を抉る感覚。地表スレスレの移動によって巻き上げられた細かい枝葉が外套に当たって弾ける。足をもつれさせて、近くにいた他の個体をも巻き込みながら前のめりに木に衝突した巨人の背後から、ユミルとベルトルトが飛び出す。うなじを切り落としたのを横目で確認し、ベロニカは次の個体へと向かった。
一匹ずつ慎重に仕留める。木々の合間を縫って隙を狙い、肉を切断。即席にしては連携はなんとか形になっている。だが。数があまりに多すぎる。振り回された巨人の腕を必死に避けて木の側面にダンと着地すると、ユミルがぼやいた。
「ったく、これじゃキリがねぇぞ……」
倒した巨人から蒸気が立ち登っていて視界が確保しづらい。何体かは足止めに成功したが、とても全ては捌ききれないだろう。ここまでせっかく温存してきたガスも減っていくばかりだ。焦りを覚えて歯噛みしていると、森の方々から次々と信煙弾が上がった。
「撤退指示だ!」
「ようやくか……!」
兵士たちは安堵のため息をつく。来た道を引き返そうと身を翻しながら、ベロニカはちらりと森の奥に視線をやった。結局、森の奥にいた敵はどうなったのだろうか?疑問が頭を過ぎるも、馬を回収して総員撤退せよと上官から下された指示にそれ以上考える余裕もなく、帰途につくのだった。
◆◆
「調査兵団が帰ってきたぞ!」
「今朝より数がかなり少なくなってないか?」
大損害を被って帰還した調査兵団を、カラネス区の住民たちは快く迎え入れることはなかった。物珍しさで集まってきた群衆は、随分と数を減らし、消沈して帰還した兵士を遠巻きに見つめている。中には上から迷惑そうに一瞥し、窓をピシャリと閉じる者すらいた。隊列に従い、馬の手綱を引いて地を踏みしめて歩くうちに、ひそひそと囁かれる陰口がさざなみのように重なって耳に入ってくる。
「あれだけ大口を叩いておいて、たった数時間でトンボ帰りとはひでえもんだ……」
「だから言っただろ。期待するだけ無駄だ。調査兵団ってのは、つくづく俺たちの税を無駄にすることばかり得意な連中なんだからよ」
ベロニカは視線を落としたままギュッと手綱を握り締めた。これだけ犠牲を払って戦い抜いても、市民からは税金の無駄遣いだと揶揄され、理解されることはない。覚悟していたとはいえやりきれなさが残る。そんな中でふと、人混みのざわめきから言い争っているような声が聞こえてきて顔をあげる。
「――とっととこの街から出ていけ!人でなし!」
金切り声とともに投げつけられ、空中に舞った物体に目を見開く。瞬間、バッと目の前に濃い緑が広がった。べしゃりと力なく地に落ちたのは悪臭を放ちはじめたての残飯の類。降りかかったそれから覆いかぶさるようにしてベロニカを庇ったのは、背後にいたライナーだった。腐った液体が彼の外套を伝い、調査兵団の象徴たる自由の翼を汚す。
「ッ……!」
息を飲み、口を開こうとしたベロニカをライナーは無言で制止した。
「お、おいあんた!仮にも兵士に向かってまずいって……!」
「うるさい!離してよ!こいつら調査兵団は、いたずらに命を使い潰すしか能のない役立たず共だってあんたらも知ってるだろ!?耳ざわりのいいことばっか言って若い衆を扇動して!そのせいで、そのせいで私は、私の息子は……!」
群衆をかき分けてやってきた駐屯兵団の兵士が、興奮状態で感情的に叫び続け、ついには泣き崩れた女性を落ち着かせようと試みる。
「あの子を返せ……返してよ!」
悲痛な慟哭が背後から追ってくる。隊列を止めることはできない。後ろから急かされて、ベロニカは脳が痺れたような心地のまま、のろのろと馬を引いて一歩を踏み出した。まだ肩に付着していた野菜の皮のようなものを手で払い除けて、ライナーは静かにベロニカの瞳を覗き込む。
「……ベロニカ、平気か?」
どうして。庇わなくたってよかったのに。様々な感情がベロニカの胸中に押し寄せて気持ちがぐらつく。咄嗟にお礼の言葉すら出てこず、息を詰まらせる。随分酷い顔をしていたのか、ライナーは元気付けるように「ほら、前を向いて歩けよ」と低い声で囁いてベロニカの背中をポンと押した。
泣きそうになるのをぐ、と堪えたのも、きっと彼にはお見通しだ。敵わない。その優しさで、余計に自分が情けなくなる。
仲間と協力して巨人を倒し、少しでも強くなれた気がしていた。けれど結局彼に守られてばかりで、何にも変わっていないじゃないか。
(……いつか本当に、きみに追いつける日がくるのかな)
弱気を振り払いたくて、前を向き、隊列の先に視線をやる。
最後にライナーの肩越しに目が合ったベルトルトの黒々とした瞳には、どこか戸惑いと非難の色が浮かんでいたような気がした。