窓を開けると宴の音がここまで聞こえて来る。
5月の大型連休は晴れやかな晴天を迎えて始まり、そして終わりを迎えようとしていた。私はその間何かをするわけでも無くいつも通りの日常を過ごし今はただその音に耳を澄ましている。普段は静かな加茂家の夜もここ数日は宴会で賑やかな夜が続いていた。
憲紀様の渡りも連休前から無く、しばらく顔を見ていない。当主として仕切る立場上、準備とかで忙しかったのかもしれない。世間は休みでも憲紀様は親戚達の相手をしていて疲れていそうだ。
宴は毎夜行われていて、最終日の今日は一段と盛り上がっている。昨日より遅くまで続く宴の音がそれを教えてくれた。
御三家の一つである加茂家の宴とは一体どんな物なんだろうか。きっと煌びやかな和服を身に纏う加茂家の親戚達がいて、豪華な食事が食べきれないほどたくさん並べてあって、加茂家当主として上座に座る憲紀様がいる。そして彼の隣には正妻がいて…。
そこまで想像して考えるのをやめた。
見たいとも思わないが、私はそれを見る事さえ許されない。側女とはそう言う物だし私が知らないだけで他にも側女はいるかもしれない。私以外にも側女がいるとしたら、彼はその人にも膝枕を頼んでいるのだろうか。
「……」
何を考えているのかと溜め息を吐く。
暇すぎて変な事ばかり考えてしまった。他の事を考えよう。そうだ、次憲紀様に会った時はどんな宴が催されていたか聞いてみよう。
そう思えば憲紀様からの渡りが前よりも楽しみに思えた。
ふと、玄関から戸を叩く音が聞こえて私は我に返る。音のする玄関を見ると再度扉が叩く音が聞こえて気のせいでは無いと思い、立ち上がった。
誰だろうか?昼間なら加茂家の親類の子供達が遊びがてら戸を叩かれたりして無視していたけど今は真夜中。もしかしたら侍女だろうかと夜中の訪問者を出迎える為、私は玄関へ向かう。
そこで私は思い出した。
まさか、と期待と不安を胸に抱き鍵を開けて扉を開け、そこに立っていた彼に目を疑った。
「…のり、とし様?」
そこには、いる筈のない憲紀様がいた。彼が訪ねて来た事と見た事が無い出立ちに思わず私は息を呑む。いつものラフな白の寝間着姿では無く、左右の横髪は白の髪留めで纏められ加茂家の紋付羽織袴を身に纏った彼は、いつもより美しく凛々しく見えた。
「遅い時間にすまない」
「どうして…」
何故彼がここにいるのか理解が出来ず、出た言葉はそれだけだった。加茂家当主として忙しくここに来れない筈なのに。
「君がこの日に私の時間が欲しいと言われたから来た」
「え?ですが…」
宴の音はまだ続いているし寝巻きでは無い所を見ると渡りでは無い事が理解出来る。
「あぁ。またすぐ戻らなければならない。僅かな時間しか取れず、すまない」
「……いえ」
多忙の中一瞬だけわざわざ会いに来てくれたのだ。この前の冗談を鵜呑みにして。冗談だったのに、私の心は何故か喜びに満ち溢れていた。
ここは本邸からすごく離れているから来るのにも時間がかかるし、そんな時間があったら少しでも休みたい筈だ。よく見たら疲労が溜まっているのか彼の目の下にはクマがある。
「お疲れですね」
「中々離してくれなくてな」
苦笑する憲紀様はいつにも増して顔色が悪い。高齢の当主なら身体に障るからと早く休めるが彼はまだ若い。本人が休みたくても親戚からは付き合えと言われるのだろう。
「そろそろ行かなければ…」
「申し訳ありません…私なんかの為に」
当主が長い間席を外す事は良くないと私でも分かる。それなのに私は冗談でもあんな事を言ってしまった事を後悔した。
「そんな顔しないでくれ。離れるのが辛くなる」
私の心を知らない憲紀様にどうしてあんな事を言ってしまったのだろうと胸が痛む。嬉しさと困惑と罪悪感が私の胸を締め付けた。
「申し訳ありません。憲紀様、お礼と言うか…お詫びと言うか…私に出来る事がありましたら仰って下さい」
「……」
「とは言っても私に出来る事なんて些細な事ですし、憲紀様が欲しい物を私がご用意出来るかどうか…」
「名前」
名前を呼ばれて顔を上げると憲紀様の身体がぐっと近づいて来て正面から覆い被さられていた。急に身体が密着し、私は驚いて声を上げる。
「憲紀様!?」
反射的に驚いて身体が跳ねたけど、びくともしない。一瞬倒れたのかと思ったけど、それは背中と頭に回る力強い腕がそれを否定していた。痛みを感じないギリギリの力強さで私は憲紀様に抱き締められていた。
「憲紀様……」
いつもより更に憲紀様の匂いや温もり感じて心臓が高鳴る。脈打つ心臓に私の心まで抱き締められているみたいで、私の身体に回る腕に細身だと思っていた彼も男の人だと実感させられた。
「すまない、つい…」
「えっと……」
「嫌では無いのだったらもう少しこのままでいさせてくれ。ただ一瞬顔を見るつもりだったのに、名前に会ってしまったら甘えたくなってしまった」
彼にそう言われて私は何も答えられなかった。不意に抱き締められて嫌ではなかった。反応出来なかったのは彼に抱き締められて嫌とかでは無く、むしろ受け入れた自分に驚いていたからだった。
暫くして彼はゆっくりと私から離れる。見上げると初めて見る悲しそうな顔をしていた。もしかして私が何も言わなかったから嫌だと受け取ってしまったのだろうか。
「すまない、今日の事は忘れてくれ」
「憲紀様!」
気まずそうに立ち去ろうと踵を返す憲紀様に思わず彼の袴の袖を掴んだ。驚いて振り返り見開いた憲紀様の瞳とかち合う。
「私…嫌ではありませんでした」
言葉と共に袴の袖を強く握る。さっきの事を嫌だったと思われたく無かった。それはここで暮らしていく中で、唯一の話し相手に嫌われるのを恐れるとかでは無い。自分の立場とか彼が加茂家の当主とか関係なく、私自身が憲紀様に嫌われていると思われたくなかった。
「そうか」
私の言葉に憲紀様は軽く微笑んでくれた。その表情に安心した私は袖が皺になってしまう事を慌てて思い出し手を離す。そして憲紀様に深々と心から頭を下げた。
「お忙しい中お時間を作っていただき、ありがとうございます」
「頭を上げてくれ、名前」
憲紀様の言葉に私は頭を上げる。そこには優しく微笑む憲紀様がいた。彼の表情に思わず私も笑みが零れる。
「私も君に会いたかった。また時間が出来たら会いに来る」
「お待ちしております」
私がそう言うと憲紀様は再び踵を返し、振り返る事無く去っていった。
彼の背中が見えなくなっても私はずっと動けずにいた。
憲紀様から抱き締められた感覚がまだ残っていて、胸が鼓動を打っている。私も彼の背中に手を回せば良かったと後悔しても遅く、温もりの消えた身体は寂しくて5月なのに肌寒い。
初めて抱くこの胸を焦がす感情は、気付いたら最後もう戻れなくなってしまった。
21.0729
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泡沫の夢