■ 06-03
沖矢昴の家から少し離れた所に零の車が停めてあって、私は抱っこされたまま助手席に座らされ扉を閉められた。零は運転席へと回っていて今ドアを開けて逃げようと思えば逃げれるけど、私は暴れ疲れて逃げる気力を完全に失ってしまった。第一、靴を履いていないから外には出られないし今車から飛び出した所で零が私を逃すなんて考えられなかった。
それでも一緒にいたくないからか、運転席に乗り込んだ零を見ずに俯いた。
「名前」
「帰らない、帰りたくない…」
自分でも何でこんな意固地になっているか分からない。ドラマで見た彼氏を困らせるヒステリックな女みたいだ。あの時は苦手意識を感じていたけど、今はあのヒステリック女と似た様な事を零にしている。
「何故あの男の家にいた」
「零には…関係ない」
「一応今の所、君は俺の妻だ。夫婦でいる以上、他の男の家に1人で行くのは良くない」
「零だって…」
私以外の女性と一緒にいたじゃない。それはいいの?
そんな事を一瞬でも思ってしまった自分に嫌悪感を感じる。零はあくまで仕事をしているのに。密閉している車内にいるせいか零からいつもと違う匂いがする。彼は消しているつもりだろうけど微かに香る甘い香水の匂いは、きっと昼間見たあの女の人の匂いだ。それに気づいた瞬間、私の心の中はまたあの不可解な感情が支配する。その感情に任せて零に酷い事を言ってしまいそうだ。
「お願いだから1人にして。今日はアンタといると傷つけてしまいそうなの」
「何があった?」
「何でもない」
「俺の知ってる君は理由もなく怒ったりしない。名前、話してくれ。それとも、俺には言えない事か?」
「私は…怒ってなんかいないわ」
零に対して怒りなんて微塵も無い。私だって自分の気持ちがよく分からないのだ。
だからと言って零に昼間見たあの事は言いたく無い。腕を組んで歩いていた女の方が似合うなんて、僻んでいるなんて。
それに零に触れられるなんて私だけだと思っていた。だっていつだって零は私に優しく触れていてくれたから。たったそれだけでそんな事思ってしまった自分が恥ずかしい。自分の身勝手な驕りを知れば零に嫌われてしまうかもしれない。
「あの男が……好きなのか?」
「違う!」
顔を上げ目が合うと零は悲しそうな顔をしていた。そんな顔をさせたいわけじゃないのに。私は唇を噛み、また零から目を逸らす。もうどうしていいか分からない。出口の無い迷路をぐるぐる迷っているみたいだ。
あの男の人が好きだなんて零に思われたくない。自分の気持ちもよく分からない。苦しくて、悲しくて、恥ずかしくて。アレを見た時から私の心は雪解けの泥濘みたいにぐちゃぐちゃだ。
「名前、言ってくれないと分からない」
「言ったらアンタは私を嫌いになるわ」
「ならない。もうどうしようも無く名前が好きだから」
はっきりと断言する零の言葉に生まれて初めて人前で泣いてしまいそうになった。嬉しいと思ってしまう反面、零の気持ちまで分からなくなってしまった。
分からない、どうしてそこまで私を好きだと言えるの?こんなに想われているのに私は何も零に返せない。
本当はこんな事言いたく無い。けど零に嫌われないならと、私は覚悟を決めて今日見た事を話し始めた。
「なるほどそれでか」
全て話し終わった後、零の明るい声に私は顔を上げる。てっきり嫌な顔されるかと思っていたけど、何故か零は口元に笑みを浮かべていた。心なしか嬉しそうにも見える。
「なんで嬉しそうなのよ」
「俺の隣に女性がいた事が嫌だったんだろう?」
零にそう言われて自分の気持ちを確信した。そうだ…私は嫌だと思ってしまった。でも零は仕事をしているのに嫌だと本人には言うのは図々しく思えて黙ってしまう。直接的には言って無いけど零にとってはそれが肯定だと受け取ったようだ。
「それは嫉妬だよ」
「しっと?」
「さっきの俺の様に好きな人が他の奴と親しくしていると恨んだり、妬む事だ。それが嫉妬。君があの男の家にいると知って嫉妬した。君が好きだから、他の奴に渡したくない」
零にそう言われて、自分に置き換えてみると彼の言葉が心にすとんと落ち着いた。
「嫉妬なの?これ?こんな感情いらなかった。すごく苦しくて…嫌だったわ。零に迷惑をかけたいわけじゃないのに」
「嫉妬も大事な感情の一つさ」
零の手が私の頬に伸びて来て顔を零と向かい合う様に向けられる。
「昼間の件だが……あれは仕事で仕方なくやった事だ。俺は名前しか好きじゃないし、女性と2人きりになる事はあるが君を裏切る行為は絶対にしてない」
真っ直ぐで真剣な目に胸が高鳴る。裏切る行為なんて具体的にはよく分からない。けれど零がそう言うならこの嫉妬って感情も少しは減る気がした。
「うん……分かった。迎えに来てくれたのに、手を叩いてごめんなさい」
「俺こそ手荒な真似をした」
頬にあった零の手が私の手首へと移動する。抱えられる際零に強く掴まれた所を撫でられた。強く握られたからか手首は少しだけ赤くなっている。
「手…冷たいな」
一頻り撫でられた後、零は両手で私の両手を握ってくれた。零の手は大きくて温かくて私の両手をすっぽりと包む。
「あの人の家にはさっき来たから。それまでずっと外にいたからかも」
「あの男とはいつ知り合ったんだ?」
「ついさっき。バス停でぼーっとしてる所を話しかけられたの」
「そうか……。帰ろう、名前。ハロが待ってる」
「うん…帰る」
自然と出た言葉に私は今日ずっと帰りたくないと思っていた事を思い出した。でもそれは私の家があるって自覚した上での言葉で、いつの間にか零と過ごすあの家が私の帰る場所だと無意識に思っていた。私にも帰る場所が出来た。こうやって零の隣にいる事だって当たり前になっている。零に出会う前は帰る場所なんてないと思っていたのに。
自分の気持ちが分かって落ち着いたのか急に眠くなって来た。いつもの寝る時間を大幅に過ぎているから当たり前だけど今寝たらまた零に迷惑を掛ける。寝ちゃ駄目だと自分に言い聞かせても瞼の重みに耐え切れる事が出来ず、私は睡魔に負けていつの間にか眠ってしまった。
21.0130
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渡り鳥は救われたい