■ 09
あれからまた引っ越して降谷零が来たのはそれから1か月後だった。
引っ越しして初めの1週間はいつ彼が来るか身構えていた。その後は仕事が忙しいとか彼の身を案じたり気付いたらアイツの事ばかり考えていて疲れてしまった。最近では諦めたのだと思って彼の事を忘れようとしていたのに。
玄関のチャイムが鳴るといつものように彼が立っていた。珍しく今日は私服だった。いつもここに来る時はスーツだったので珍しい。今日は休みか潜入捜査の帰りだろうか。
大抵は引っ越ししてから1週間以内に新居に来てたはずなのに、今回はずいぶんと間が空いたものだ。久しぶりに彼の姿を見て素直に嬉しかった。それが私を逮捕する目的だと分かっていても。ずいぶんと絆されたものだ。自分で自分が馬鹿らしく感じる。
「珍しいわね、今日は私服なんて」
「今日は特別だからね」
特別とはどういう意味だろう?この後予定でもあるのだろうか。部屋に戻るといつものように彼も入ってくる。私の向かいに座った彼は薄い大きな封筒を取り1枚の紙を取り出す。それをテーブルに置き私に差し出した。
「なにこれ?」
「君へのプレゼントさ」
彼の言動の意味が分からなくてとりあえず出された紙を読む。その紙には降谷零の本名や本籍、両親の事など書かれていた。現物を見るのは初めてだが、役所などでもらえる公的書類だ。
「アンタの戸籍謄本?こんなの見せて何がしたいの?」
「ここ見て」
細くて長い指がトントンとある所を指差す。そこには降谷零の配偶者の名前があった。なんだ結婚してたのね。それを見た瞬間抑えきれない負の感情が私を支配した。書類には婚姻日もあり日付は最近だった。
「誰これアンタの奥さん?結婚報告?私は友人のつもり?結婚したのならもう会いに来ないで。仕事とはいえ女の家に来るなんて奥さんが可哀想だわ」
そう言うと降谷零は軽く笑う。その表情がすごく腹立たしかった。
何笑ってるの?私が欲しくてたまらない物を見せつけて満足?私には戸籍もない、誰とも関われない。1人でいるしかないのに、こんな思いをするなら早くコイツと縁を切ればよかった。
「君の新しい名前だよ、降谷名前」
「…………え?」
思考が停止した。『名前』は戸籍謄本に記載されていた降谷零の妻の名前だ。それが……私?
言われた事に意味が分からず私はぽかんと彼を見上げた。きっと今までで1番間抜けな顔をしているだろう。
「何言って…」
「君と会話してて思ったけど君は犯罪を犯したくないみたいだ。でも優秀なハッカーとして育てられた君には犯罪を犯さないと生きてはいけない。監禁生活が長かったから普通の会話や仕事が出来ないんだろう?」
思い当たる節があって私は目を逸らした。
普通になりたくて一般企業に入ろうとした。偽の経歴を作ってまで。でも続かなかった。外界から隔離された十数年は私に一般常識を奪っていた。同じ日本語を喋っているのに意思疎通ができない、話に付いていけない、過去を聞かれても誤魔化す事すらできない。そんな奴が使えるはずがない。馬鹿にされる度に私は絶望していった。結局私はシギに戻らざる得ないのだと。
「それはそうだけど……なんで…こんな事。同情ならやめて不愉快よ」
「同情なんかじゃない。君の為って言ってるみたいだけど、本当は俺の為でもあるんだ。シギ、君が好きだ。これからは名前として俺と一緒にいて欲しい」
何を言ってるんだこの男は。私を好き?こんな犯罪者を?頭がパンクしそうだ。まさかこれは降谷零の作戦で逮捕できない代わりに私を監視下に置く為の罠なんじゃないかとさえ思えてくる。そんな私を見透かすように降谷零は笑う。
「俺が君を好きなのは本当だ。警察の上の連中にも許可は取ってある。表向きは俺のSで監視の為って伝えてるが何もしなくていい」
冷静に考えて自分の戸籍を傷つけてまでこんな事するだろうか。でもずっと犯罪者の私を逮捕するために会いに来ていたはずなのに意味が分からない。
「ずっと私を捕まえるって言っていたじゃない」
「そうだな、君は逮捕するって意味で受け取っていたけど違う。君が好きだから捕まえて俺のそばにいさせたい。そういった意味さ」
ますます混乱する私を余所に降谷零は立ち上がり私に近づく。何故だか怖くなって彼から距離を取ろうとしたが横に座った彼は私の手を取る。手を引っ込めようとしたが読まれていたのか逃がさないように力を込められ逃げられなかった。
どうしていいか分からず彼を見ると彼の目は真剣そのものだった。
「最初は君を逮捕するって言って傷つけてしまったから、君の力になりたかった。だが話している内に君自身に惹かれていたよ」
「別に傷ついてなんか…いない。それにこんなの用意して私が要らないって言ったらどうするつもりなの?」
嘘だ。あの時私は少なからずショックを受けていた。
「その時は俺を好きになってもらう様努力するだけさ。どうしても好きになれないなら離婚すればいい。だけど社会に馴染めるまで俺が君をサポートする。君が求めていた普通になっていつか新しい家庭を持つといい。勿論1人で生きてもいいしそれは君の自由だ。今時バツイチなんて珍しくないよ。俺は悲しいけど君が幸せならそれでいい」
「どうしてそこまでするの?私はアンタの嫌いな犯罪者よ。好かれる理由なんて無い」
「君は犯罪者なんかじゃない。組織に利用されていた被害者だ。あの時は傷つけてすまなかった。それに人を好きになるのに理由はいらない。名前、君が好きだから君の為に何ができるか考えた結果さ」
走ってもいないのに心臓がドキドキと鼓動を打つ。
「それで、君はどうしたい?名前」
「私パソコン以外何もできないわ」
「落ち着いたらパソコン教室でも開いてみたらどうだ?もちろん犯罪は無しの」
「料理とか家事とか普通の女の子が出来る事ができないわよ」
「普通の女の子でも苦手な子は大勢いるさ。俺は得意なんだ、名前が望むなら俺が教えてあげるよ。ずっとね」
間髪入れずに返される。まるで私がそう言うと想定していたかのようだ。
「急に結婚とか好きとか言われても私はアンタの事好きか分からない。今まで出会った中でまともな人がアンタが初めてだったから、毎回会えたのは嬉しいけどただの依存かもしれない」
「今はそれでいいじゃないか。ゆっくり俺を知ればいい。少しでも君が俺といたいと思うなら一緒にいよう」
彼は逃げ道を塞いでいく。反論する余地を与えさせない。
降谷零と関わると傷つくのが怖くて逃げていた。でも今は彼と一緒にいたいと思ってしまう自分がいる。言ってしまえばこの関係が崩れると思って彼を避けていたのに。そう言われたら隠していた本音が出てしまう。
「一緒にいたい…かもしれない」
「ありがとう、名前。やっと君を捕まえる事ができた」
嬉しそうな降谷零を見て胸が熱くなった。この気持ちが彼と同じ気持ちか正直まだわからない。でも願うなら同じ気持ちの方がいい。
繋いでいた手のまま指を絡ませ初めて自分から彼に触れると彼は嬉しそうに深く指を絡ませ優しく握り返してくれた。
Fin
20.1004
あとがき→
[
prev /
next ]
渡り鳥は救われたい