「そうだ、しばらく休むって連絡しなきゃ」
ふと、時計を見ていて思い出した。切羽詰まってて会社の存在を今の今までで忘れていた。現在の時刻は本来なら出勤の準備をするはずの時間帯だった。しかし今はそれどころでは無い。
「それなら僕のスマホを貸します。名前さんの会社の番号も調べましょうか」
私のスマホは使えない。電話帳に入っている会社の番号も見る事は出来ない。長い電話番号なんて覚えている訳がない。ネットに番号が出ているといいのだか。
私達は電話をかけるため部屋へと戻った。
長期休暇の理由は遠方に住んでいる母親が長期入院することになって付き添いの為と昴さんと考えた。嘘をつく事に躊躇いはあったが私がいる事で会社に迷惑がかかるのも良くない。ホームページに会社の電話番号があったので昴さんにスマホを借りて電話をかけた。
「お電話ありがとうございます。株式会社○○です」
出たのは仲のいい先輩だった。よく食事をする仲なので声でわかる。先輩が出てくれてよかった、他の人より言いやすく感じる。
「おはようございます。苗字です。実は…」
「あれ名前ちゃん?大丈夫?さっき電話があって体調を壊して実家に帰省する事になったから退職するって聞いたわよ」
先輩の言葉に私は思考停止する。急に口の中が渇いたようにカラカラに乾き言葉が詰まりそうになるがなんとか絞り出した。
「…え?、誰が…そんな事……」
「確か親族の人って言ってたよ。電話できないから代理って、男の人だったわ」
間違いない、彼だ。
先回りして手を回していた事に息をのむ。応答のない私を不審に思ったのか先輩は何度も私を呼びかけた。
「もしもし、名前ちゃん何かあったの?」
「すみません、大丈夫です。また連絡します」
先輩がまだ何か言っていたが私は通話を切ってしまった。
何故彼が…どうしてこんな事を…。
昨日の今日でもう会社にまで話しを通してるとは思わなかった。自分の知らない所で事が動いている事に恐怖すら感じる。
「どうしました?」
昴さんの心配そうな声に私は我に返る。すぐ近くで電話を聞いていた彼は明らかに会話がおかしいと思ったのだろう。
「……電話に出たの仲のいい先輩だったんですが、退職するって連絡があったみたいです。男の人の声で。親族って言ってたらしいですが…」
「なるほど、彼ですね。さすが手が早い」
昴さんは関心しているようだが私は血の気が一気に引いた。何故彼がこんな事をと思ったが彼の目を思い出した。あの怒りの目、やはり見てはいけないものを見た私を殺す気なのだろうか。
彼が会社に退職すると伝えたのは、私が死ぬ事で騒ぐ人を減らすためだろう。騒がれる人が少ない方が彼らもやり易いはずだ。何というか手慣れすぎている。彼の手際の良さに私は恐怖で身体が強張ってしまう。
「大丈夫です。僕がついてますから」
昴さんは私の手に優しく触れる。握り締めていた手を昴さんによってゆっくり開かれた。いつの間にか自分の手を強く握りしめていたようだ。
ああ、優しい人だ。私の手が自爪で傷つかないようにしてくれたのだろう。
ついていてくれる、それは本当に嬉しい。でもそれは昴さんを危険に晒しているのではないだろうか。昴さんの言葉に私は安心よりも心配の方が強くなっていく。
駄目だ。会社まで手を回している彼に昴さんの存在がバレたらどうなるか分からない。
「とりあえず今はチェックアウトの準備をしましょうか」
「はい…」
これ以上昴さんと一緒にいたら迷惑をかけてしまう。昴さんが支度をする為ユニットバスへ向かうとその間に私はテーブルにあった備え付けのメモ用紙にメッセージを書き破いた。
メモには感謝と謝罪を。
時間が無かったので簡易なものになってしまったが、言葉では表せないほどお世話になった。
丁度昴さんがユニットバスから出てくる。私は慌ててメッセージの書いた紙をズボンのポケットに仕舞う。今はここで別れると言っても許してくれないだろう。
「では出る準備をしましょうか」
「はい」
お世話になった分際で勝手にいなくなるのは申し訳ないが昴さんのためでもある。自分の荷物を整理しながら私はどうにか隙を見て逃げる方法を考えていた。
20.0913
前へ 次へ
逃避行