逃避行 | ナノ
 
「クソっ!」

通話を一方的に終えた瞬間、抑えていた怒りの矛先を車のハンドルに向けて強く叩く。少しはそれで気持ちが収まるかと思ったが鈍い音と共に痛みが走っただけで何も変わらなかった。

いい女だと?たった半日しか行動を共にしていなかったお前が名前を語るな。しかも馴れ馴れしく下の名前で呼び捨てにしやがって。いつもそうだ、言葉の全てを以て上から目線で俺を煽ってくる。


『名前の為か…自分の為じゃないのか?』


腹立たしい会話の中で一番癪に障る言葉を思い出す。

自分の為?あぁ、そうだ。俺の大切な人を奪われない為に殺した。それが何だ、俺が殺した男だって保身の為に名前を殺そうとしたじゃないか。…いや、あの男の言い分は分かっている。私情で殺人を犯した理由に名前を使うなと言っているんだ。

ハンドルを叩いても腹の虫は収まらなかったが、こんな事をしている場合ではない。冷静になる為に髪を掻き上げ息を吐く。

今はあの男よりも名前の方を優先すべきだ。単独で動いているのならより短時間で見つけられる。行き先を自宅に変更し、家にあったノートパソコンと彼女を追う上で必要な物を用意して、再び彼女の足取りを追った。


すぐ移動出来る様に車の中であのホテルの防犯カメラを再度ハッキングした。あの男から電話があった時刻から遡って調べると、フロントにいた2人が会話をした後別れた。おそらくトイレか何か理由をつけて離れたのだろう。あの男がフロントにいるなら裏口から出て行ったに違いない。

映像を切り替えると帽子を被った名前が出てきた。帽子で顔は見え辛いが服装がさっきと変わっていない。変装した彼女を一目で見破れた事に嬉しさが込み上げて来る。

その後名前は電車で隣町の杯戸駅へ行き、駅構内でマスクを購入してそれを装着した。彼女なりの変装のつもりなのだろうが防犯カメラでマスクを付けた所は確認出来たし、善人の名前が常に犯罪者を追ってる自分から逃げようとする事は無謀にも思えた。


君なりに一生懸命考えたつもりだろうが俺から逃げるなら服装も小まめに変えて尚且つ防犯カメラの映らない所を移動するべきだったな、名前。だがそれでも君を逃すつもりは無いけどな。


その後彼女は街中でよく見かけるコーヒーショップへと入った。時間を確認すると2時間前になっていた為、動きがあるまで早送りで見ようと思ったがそれをする事は出来なかった。名前は雑誌のページを捲って少しだけ目を通してはいたが、時折どこかを見つめ物思いに耽る。それをずっと繰り返していた。

確実とは言えないがきっと俺の事を考えているのだろう。アレを見られたせいで俺に対してマイナスな感情を持ってしまったかもしれない。それでも名前の心を俺が占めている、その事実は高揚感に似た喜びを感じさせた。


しばらくして彼女が席を立ち、飲み終わったコーヒーの紙コップと雑誌を片付けて外へ出た。街中に設置された様々な防犯カメラを辿ってとあるホテルへと入って行くのが分かった。名前が入ったホテルの防犯カメラを見ると、どうやら今日はそこに泊まるみたいだった。

ホテルの名前と住所を記憶し、コーヒーショップにいた時の名前の顔をスマホで撮って急いでそのホテルへと向かった。




「いらっしゃいませ」

頭を下げるホテルの従業員に警察手帳を提示する。それを見た従業員は、すぐに顔を強張らせた。

「すみません、警察の者ですが責任者の方をお願いできますか?出来れば別室に通していただけると助かります」

「かしこまりました、こちらへどうぞ」

従業員に案内され、フロントの奥にある事務所に通された。ソファーに促され座って待っているとしばらくして恰幅の良い男性が部屋に入って来る。どうやらこの男が責任者の様だった。

「警察の方がどの様なご用件でしょうか?」

責任者の男は明らかに挙動不審だった。だがいきなり警察だと名乗れば似たような反応をされるものだ。いつもの事だと思い、男の様子を気にせずに話を進める事にした。

俺はスマホを取り出しさっき撮った名前の顔の画像を責任者の男に見せる。

名前に俺の写真を撮る事を禁止していたが、俺も名前の写真を撮った事が無く彼女の顔が分かる物が無かった為あの時撮っていたのだった。いつか写真を撮りたいと思っていたが、初めて撮る恋人の写真がハッキングした物になるとは思いもしなかった。

「この女性、実はある事件の重要参考人でして保護しなくてはいけなくなりました。ただこちらの不手際もあって警察に不信感を抱いているみたいなんです。我々の調べで現在はこちらのホテルに滞在している事が分かりました。僕が警察官だと分かると出てきてくれないかもしれません。部屋に籠って籠城などされたら困るので、協力してくれませんか?」

息をする様に簡単に嘘を吐く。そこには、後ろめたさや罪悪感などは全く無かった。

「そうでしたか……とりあえず該当のお客様をお調べ致します」

「よろしくお願いします。名前は苗字名前さん、こちらの調べでは今日の昼過ぎにチェックインしているみたいです」

ホテルの責任者は慌ただしく立ち上がり部屋を出て行った。数分後、宿泊者名簿の紙を持ちそれを俺に渡して来た。それによると、どうやら2泊宿泊する事が分かった。2泊なら今日と明日は目立った動きはしない筈だ。

「できる限りご協力させていただきますが、私たちはどの様にすれば良いでしょうか?」

ここに来る迄の間、作戦はいくつか考えていた。名前の性格や行動パターンを計算してより確実に成功率が高い作戦に絞る。だが今はそれを実行する時では無い。

「それは明日お願いします。明日の朝また連絡しますので、とりあえず今日はこのホテルに宿泊させて下さい。彼女とは別の階に一部屋用意できますか?」

「分かりました。すぐにご準備致します」


従業員に案内され準備してくれた部屋に入り一息つく。名前の居場所を突き止めたが、忙しい身である事には変わらない。パソコンを立ち上げて公安の仕事を片付けているといつの間にか夜になっていた。ルームサービスで食事を摂り、明日に備えていつもより早くベッドに入った。


明日には名前に会える、そう考えると嬉しくて眠れないかもしれないと思っていたが、昨日の事やそれ以前の激務のせいか疲労が溜まっていたらしく気づいたら意識を失うように眠ってしまった。



珍しく、夢をみた。

初めて名前と出会ったあの日の夢だった。

あの時、逆光で光り輝いて見えた名前は文字通り俺にとっての光だった。辛い日々でも彼女といれば励む事が出来たし、公安に勤めている重圧を忘れて自分も普通の男になれた。だからこそ手放したくない、そんな事を再確認させる夢だった。


意識が浮上して、目を開ける。

取り戻したい。俺の光を。

その気持ちを胸にベッドから起き上がった。




21.0101

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