逃避行 | ナノ
 
しばらくして静かになったので泣き止んだと思ったが力が入っていない事に気づく。少し離して彼女を見ると泣き疲れて寝てしまったらしい。閉じられた目には涙の跡が残っていた。

寝てしまった名前を抱き抱えるとずいぶんと軽かった。安室くんの事で悩んでいたせいか食事も喉に通らなかったのだろう。夕食用に買ったおにぎりも手付かずの様だった。

名前曰く、彼は何か隠していると言っていた。おそらく安室くんと付き合っていた彼女は降谷零の存在になんとなく気づいてしまった、そんな所だろう。架空の人間と付き合っていた彼女も、ろくでもない男に引っかかったものだ。名前をよく見ると目の下に隈もある。安室君も騙すなら本気にさせない付き合い方をすれば彼女も幸せだっただろうに。

任務の為とは言え彼も酷な事をする。悲痛に泣く姿を見てしまったからか、出来ないと分かっていてもつい安室くんに求めてしまった。

気を失ったかの様に深く眠る名前をベッドに寝かして、布団をかける。閉じていた目からまた涙が一雫零れていた。

安室くんの性格上、彼女を殺しはしないがアレを見られた以上別れる事を選択するだろう。彼女がこれ以上傷付かず組織の目を逃れる為には証人保護プログラムを受けさせ、どこか遠い場所に身を隠せばこれ以上辛い思いはしない筈だ。直接安室くんから別れを切り出されるより自然消滅の方が傷は浅いかもしれない。そんな事を考えながら名前を眺めていると不意に彼女は口を開いた。


「れい…くん……」


彼女から出たその名前に思わず目を見開く。寝言で彼女が口にしたのは彼の本名だ。何故、と疑問に思ったが瞬時に全てを悟った。彼は降谷零として名前と付き合っていたのだ。


なるほど…複雑な事情があるものの、お互い本気だったと言うわけか。名前は恋人の本名を知らされず、ただカモフラージュの為に付き合っていた哀れな女では無かったのだ。だがこれはあくまで憶測の段階に過ぎない。彼にも確認する必要がある。


俺は立ち上がりソファーに置いてある彼女のボストンバッグを漁ってスマホとSIMカードを取り出す。彼女に危害を加えないか確認してから彼の元へ返そう。今はここを動けないから明日チェックアウト後にでも彼女の隙を見て安室君に電話をしよう。彼女はスマホを使えないと思っているからしばらく預かっていても気付かれない筈だ。もし気付かれたら一緒に探して見つけたフリをして返せばいい。


名前のスマホとSIMカードを自分のバッグに入れ、当初の目的だった忘れ物を取り風呂へと向かった。
 







翌日1枚のメッセージを見つけた俺は、煙草を蒸しながら愛車に寄りかかりそれを眺めていた。

  
すばるさんへ
勝手にいなくなってすみません
ありがとうございました

苗字名前


チェックアウトをしてトイレに行った彼女をしばらくの間待っていたが名前が俺の前に姿を表す事は二度と無かった。一応ホテルの女性スタッフにトイレの中を確認してもらったが彼女の姿は無いと言う。

まさか安室くんが彼女を連れ去ったのかと思ったがバッグの外ポケットに紙切れを見つけそれを開くと名前からのメッセージが書かれていた。

乱れた文字には、感謝と謝罪が綴ってあった。短い文章だが彼女の気遣いを感じる。なるほど、俺を巻き込みたく無いが故か。安室くんがやった会社への電話が相当なプレッシャーだったようだ。


彼女がいなくなった今、出来る事は限られてくる。とりあえず彼女のスマホから安室君に電話をかけてみよう。単独で動いている俺よりも公安の彼の方が先に名前を見つける可能性が高い。今頃、躍起になって俺達を探している筈だ。


煙草を消して車に乗り込み、名前のスマホを取り出してSIMカードを入れた後、電源も入れた。パスワードが設定されていたが昨日彼女が操作していた時に盗み見たから問題は無い。

連絡先には彼の本名も偽名も無かったがすぐに彼の連絡先は分かった。『ゼロくん』と登録されていた名前は確実に安室くんの物だ。“ゼロ”はあのボウヤが彼の昔のあだ名だと言っていたから、それを知っているこちらとしては分かりやすかった。

だが安室くんにとっては名前を守る為に考えた秘密の暗号のつもりだったのだろう。彼の名前を登録すると彼女に危険が及ぶ可能性がある。自分の中で仮定していた憶測が段々と確証に変わっていくようだった。


変声機のスイッチをオフにして声だけを戻す。

電話をかけると彼はすぐに出た。


「名前さん、大丈夫ですか!?」

焦りと心配そうな声。聞いた事のない声音に如何に彼女を大切にしてきたかが分かる。

「久しぶりだな、安室くん。悪いが名前はここにはいない」

「赤井貴様っ…」

電話の相手が俺だと分かると丁寧な口調が瞬時に変わる。電話の向こうで燃える様な殺意を感じた。

「君の大事なお姫様を拐って悪かった。だかあの状況じゃ仕方ないだろう。君に電話をしたのは名前に危害を加えないか確認したかった」

「僕が名前に危害を加える?馬鹿も休み休み言え。彼女は僕が今まで大切にしてきた恋人だ」

「あぁ、名前から聞いたよ」

「貴様こそ名前に何もしてないだろうな?」

「………」

君のせいで彼女は泣いていたぞ、だから抱き締めて慰めた。そんな事を言ったら休戦なんて無かった事にされそうだ。いつもより攻撃的な口調からして、やはり名前は彼にとって特別な存在だったのだろう。

そんな彼の大切な恋人に慰める為とは言え、抱き締めた事は彼からしたらアウトだろう。手を出したとバレたら問答無用で右ストレートが飛んできそうだ。下手したら弾丸の方になるかもしれない。ここは下手に何も言わない方がいいだろう。否定も肯定もせず話題を変える事にした。

「あの男はどうした?」

「殺したさ、名前の為に」

感情のない事務的な報告だった。とても人を殺したとは思えないほど。だが引き金を引く度に人としての気持ちなんて無くなる。それは十分分かりきった事だった。

「名前の為か…自分の為じゃないのか?」

図星だったのか、やや間が空いてから返答が返ってきた。

「貴様には関係ない。名前はどこにいる?」

「それが彼女に振られてしまってね。逃げられてしまったよ」

大切な恋人が俺を出し抜いた事に気を良くしたのか、彼は鼻で笑う。

「FBIが一般人に撒かれるなんて笑えるな。では僕は彼女を迎えに行きますので」

「あぁ、頼んだよ。それと……彼女いい女だな」

「……」

怒号が返ってくるかと思って身構えたが、返答は無く無言で電話を切られた。やはり俺から彼女を褒められても嬉しくなかったらしい。


彼女の身が心配だが優秀な恋人がなんとかするだろう。それに、彼女のスマホはこちらの手の内だ。いつか取りに来るついでに彼から事の顛末を聞いてみるとしよう。それまでは大切に彼女のスマホを預かっておかなければ。そう思いながら新しい煙草を取り出しそれに火を点ける。

「不器用な恋人達だな…」

そう呟いた言葉は、煙と共にやがて何処かへと消えて行った。



20.1205

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