逃避行 | ナノ
あの日、私は風邪をひいてしまった友人の代わりにミステリートレインに参加していた。

正直ミステリーは得意じゃない。ドラマや映画を見ていて終盤の解説シーンになってもわからない時がよくある。でも恋人の零くんのお土産話しになるならと参加した。彼は頭が切れるしミステリーも好きだと言っていたからだ。

客室のある列車に乗るのは初めてだったので、探検がてら車内を歩いていると迷子になってしまった。車内には号車番号が書いて無かったし似たような造りをしていてややこしかった。

休憩がてら邪魔にならないようデッキの踊り場にあるドアにもたれ掛かる。この電車は到着駅までノンストップだから降りる人も乗る人もいないしドアにもたれ掛かっても邪魔にはならないだろう。窓の外は綺麗な山並みが続いていた。そろそろ部屋に戻ろう部屋の場所は車掌さんにでも聞こうか、そう思った瞬間背後に人が通る気配を感じた。反射した窓越しに見えたのは私の恋人の降谷零の姿だった。

え?零くん?
急いで振り返ると彼は行った後だった。彼からしたら私は後ろ姿だったので気づかなかったようだ。見間違える訳が無い。彼は良い意味で目立つし大好きな恋人なのだから。外で偶然会うのは初めてなので心が躍る。急いで追いかけようと一歩踏み出したが彼との約束を思い出して立ち止まる。

外で会っても声をかけてはいけない。

上がっていた気分が一気に下がる。仕事が忙しくなるからしばらく会えないと言われて会うのも久しぶりだったから余計に落ち込んだ。約束だから仕方がない。諦めて彼が来た車両に行こうと踵を返そうとした。


「あれ?貴方も乗っていたんですね!安室さん!」

「えぇ!ネットでうまく競り落とせたんで…」


すぐそこで彼が女の子と話しているのが聞こえて思わず立ち止まる。

あむろさん?降谷さんじゃなくて?

彼らからは見えない位置に私はいたが会話ははっきりと聞こえる。もしかして零くんじゃなくて他人のそら似?でも今聞こえている声は零くんの声のはず。

こっそりと壁から覗き込むと間違く彼だった。声も姿も全く一緒。でも彼と話しをしている彼女は零くんをあむろさんと呼んでいた。

私は訳が分からなくなって零くんが来た方の車両へと移った。

どうして?なんで?
彼は降谷零じゃなかったの?あむろさんってどう言う事?


状況が理解出来なかった。するとドアが開き、さっき零くんと話していた彼女達が通り過ぎる。私は意を決して彼女に話しかけた。

「すみません、ちょっと良いですか?」

私の呼びかけに女の子は振り向く。どうやら高校生くらいだろうか、長い黒髪の似合う女の子だった。

「さっきあなた方と話していたあむろさんて方知り合いですか?」

「えぇ、私の父が探偵でそのお弟子さんです。ウチの下のカフェでバイトをしていて私立探偵もされているんですよ」

零くんも探偵だ、どこかの喫茶店でアルバイトもしているって前に言っていた。

「彼の名前聞いても良いですか?」

「安室透さんて方ですよ」

あむろとおる。降谷零とは全く違う名前。

「あの…安室さんが何か?」

「いえ、知り合いに似てたので確認したくて。でも勘違いだったみたいです。すみません。ありがとうございました。恥ずかしいので、あむろさんって方にも内緒にしててもらっていいですか?」

「はい、それはいいですけど…大丈夫ですか?顔色悪いようですよ」



大丈夫です、と彼女に伝えてそのまま別れた。その後事故があったらしく途中で列車を降りる事になり事情聴取の後解放された。そこでは零くんに会わなかったので私がミステリートレインに乗っていた事は彼は知らないままだっただろう。


私は家に帰っても混乱の最中にいた。


「あむろとおる…」

彼の名前を1人で呟く。他人のそら似なんかじゃない。彼は確かに降谷零だった。なのになんで私が知る名前と違うの?

喫茶店に勤務しているし探偵とも言っていたから間違いなく彼と合致する。職場に偽名を使うなんて有り得ないから私が知っている降谷零が偽物の名前なんだろう。

頭を整理するたびに心がズタズタに引き裂かれていく。

なぜ私に偽名を名乗ったの?もしかして私とは遊びか何かの詐欺なの?彼と過ごしたあの日々はなんだったの?


あの日教えてくれた名前は嘘だったの?


「私、苗字名前って言います」

「名前さん、素敵なお名前ですね。僕は降谷零です」

「降谷さん…珍しいお名前ですね」

「よく言われます。あの名前さんさえ良ければ近くに良い喫茶店があるんですけどご一緒にどうですか?お茶のお礼に」


あの時の告白も言葉も嘘だったの?

「名前さん好きです。俺でよかったら付き合って下さい」

「降谷さん……嬉しいです。私もあなたの事が好きです」

「本当ですか!なら俺たち今日から恋人同士ですね」

「恋人なら下の名前で呼びたいな。零くんって呼んでいい?」

「もちろん。ずっと君にそう呼ばれたかった」

出会った時は恋人ではなかったけど本命に偽名を伝えるなんてあり得ない。私は彼の本当の恋人ではない。考えた結果は耐えがたいものだった。

聞きたかった。降谷零は偽名なの?なんで私と付き合っているの?でもそれを聞いたら彼は私の元を去るのだろうか。騙していた相手に真実がバレたのだから。

零くんと2度と会えないかもしれない。そんな事考えるだけで辛い。たとえ彼が私を騙していたとしても。

だから私は蓋をした。今までどおりの降谷零と付き合ってる何も知らない苗字名前として。他人から見たらバカな女だと思われるだろう。だけど彼に会えなくなってしまう事や本当は私の事好きでは無い、そんな事実を突きつけられた方がよっぽど辛い。



後日彼が私の家を訪れた。零くんは勘が鋭いのでバレないように体調が少し悪いと偽った。

いつか私が見たいと言っていたDVDを彼が借りてきたのでソファーに並んで座る。この優しさも私を騙す為なのだろうか。隠しているつもりだったがやはり彼に何か変だと気付かれた。

「大丈夫?名前さん」

零くんの綺麗な青い瞳が私を映す。

「ありがとう、零くん。大丈夫だよ」

彼の偽名を呼ぶ度に胸が痛くなる。

「名前さん、無理しなくていい。君が具合悪いならまた今度一緒にDVDを見よう。また借りてくるから。君が心配なんだ」

本当に心配なの?貴方は、あむろとおるなのに。

彼は本当に心配そうにしているように見えた。以前なら彼の優しさに胸が高鳴っていたはずなのに、心が刺されたように痛くなる。

彼から受ける優しさが辛い。こんなに耐えられないなんて私はなんて弱い人間なのだろう。

この頃からだろうか呼べない彼の本名を1人でこっそり呼ぶのが癖になった。彼を呼ぶ為の偽名でも、1人でこっそり呼ぶ本名でも彼の名前を口にしただけで苦しかった。


月日が経つうちに彼への愛が減るどころか増すばかりでこれ以上嘘をつかれたくない、そう思うようになった。好きだから彼と向き合いたい。彼の本名を1人こっそり呼ぶのではなく、彼に向かって呼びたい。


だから街中で彼を見つけた時、私は初めて約束を破った。

彼を見た瞬間思い立った出来心だった。

いけない事だと分かっていても、辛い事が待っているかもしれないと思っていても真実を掴むべく私は踏み出したのだ。



20.1014

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