逃避行 | ナノ
完全に油断してた。だってフロントに電話して人を呼んだのは私だ。フロントの人だって来るのはスタッフだと言っていた。なのに何故彼が制服を着て訪ねてくるのか理解できない。

もっとちゃんと確認しとけば良かったと後悔しても遅く、ドアの前に立たれれば外に出られない。横をすり抜けれる程私は素早く動けないし彼がそれを許さないだろう。それに鍵もチェーンロックをされている。


疑問も口に出せないほど混乱と恐怖が私を支配してた。そんな私を余所に彼は辺りを見回したりユニットバスの扉を開いて中を見たりしている。



「やはりあの男はいないみたいだな」

「あの男…す、昴さんの事?」

名を出した瞬間、しまったと思い口元に手を当てる。彼に見つかっても昴さんの名前を出さないようにしようと思ってたのに。急な彼との再会につい口走ってしまった。

すると突然彼はまた真顔になり私に近づく。距離を取ろうと後退りをするが数歩下がった後ベッドに足が当たりこれ以上は下がれない。足元に気を取られているとすぐ近くに彼がいて、そのままベッドに押し倒された。

小さく悲鳴を上げる私に構わず彼は馬乗りになり片手で私の両手を頭の上で拘束し片足で私の両膝を押さえる。手と膝を押さえられたら立つ事はできない。完璧な拘束に私は身動き一つ取れなかった。

「もう下の名前で呼び合う仲とは、恋人の俺を差し置いてずいぶんと仲良しなんですね」

明るく話しているが言葉には皮肉が込もっていた。いつも見ていた彼とは別人のようにも感じる。彼は時々敬語が混ざった話し方をするが、こんな責めた言い方はしなかった。

「何でここが…」

「俺にとって造作もない事さ。君も聞いていただろう?俺が探り屋だって事を」

「私を…殺すの?」

「殺しはしない。だが俺の監視下で過ごしてもらう。勿論俺以外の人と接触はできないがな」

心臓を鷲掴みされたように恐怖で言葉が出ない。それじゃ死んでいるのと変わらない。

恐怖で言葉が出ない私とは対照的に彼は明るく楽しそうに話す。

「君を探し出すのは簡単だったよ。帽子やマスクで変装したとしても個人を特定するのは簡単だからね。例えば膝の形や歩き方とか…」

彼は私の両手を拘束したまま片方の手で私の足に触れ、そのまま太腿をゆっくりなぞっていく。彼の細い指が私の身体を弄び思わず声が出そうになる。

「…っ!!」

「そして耳も個人を特定する重要な部位」

髪の毛を耳にかけられ彼の顔が近づいてきたかと思うと急に耳にキスされた。そのまま耳を舌で舐められたり軽く齧られたりを繰り返される。

「い、嫌っ!」

わざと音を出しているのか淫猥な音が私の鼓膜を刺激する。彼の熱い舌のせいでくすぐったいのと同時に羞恥が襲う。なんとか逃げようと、もがくが抵抗できない様に手と顔を拘束され逃げられない。しばらく彼は私の耳を攻めた後、最後にもう一度音をたてて耳にキスをした。

「真っ赤になって可愛い人だ。でもこれは約束を破った罰ですよ。俺は名前さんを信じていたのに…君は約束を破るどころか俺の前から居なくなり、その上あの男と一緒にいるなんて…」

「昴さんは関係ないの!だから…」

続きは出なかった。彼が怒りに満ちた目で睨んだからだ。私を萎縮させる、絶対零度の瞳だ。付き合ってから喧嘩とまではいかなかったが言い合いをする事はあった。それでもこんなに敵意剥き出しで睨まれる事は初めてだった。


横に向けていた顔を向かい合うように向けられる。彼は身を乗り出し今度は唇を塞がれた。

「!!」

まさかこのタイミングでキスされるとは思わず少し開いた口の隙間から無理矢理舌を入れられ私の舌を求められる。以前してくれたような優しいものではないではない。角度を変え、口の中を犯すような激しいキスだった。

「ん、ふっ……あっ……」

息をしようとするとそれすらも捕らえるかのように舌を絡められる。お互いの息遣いとリップ音、私の微かな声だけが部屋に小さく響く。長いキスのせいで唇が解放された時はだいぶ息があがっていた。

「あの男の名を呼ぶな」

地を這うような怒りに満ちた声。息があがっている私とは違い彼は息一つ乱してない。彼は自分の唇についた唾液を指で拭うとそのまま私の唇をなぞる。


「名前さんが男の名を呼ぶ時は俺の名だけでいい」


真剣な眼差しに私は胸の痛みを感じた。

嘘つき、私は貴方の本名を呼んだ事が無いのに。

もう何もかも限界だった。


「…あむろ……とおる、さん」

彼の名前を呼ぶと胸が抉られてしまう。

「わたし、貴方がぎめいって事…しってるの……」

深いキスのせいか頭がぼーっとする。
息が上がって舌も回りずらい。

彼が驚きのあまり目を見開く。偽名と言う事実を私が知っている事に狼狽てるようだ。


「どうして…名前を偽ったの?私を騙すためだったの?私を好きって言ってくれたのも嘘だったの?」


溢れてしまった想いを言葉でぶつける。気持ちが高ぶって涙も一緒に零れ落ちた。嘘をつかれていた事実を改めて自分の口から言うのはとても辛い。涙で滲んで彼の表情は分からなかった。


「私だって貴方を信じてたわ、だって好きだから!貴方に殺されるかもって思ってもやっぱり私は貴方の事好きだって思った。でもそれ以上につらいの、貴方に嘘をつかれる事が…」


彼が偽名だという真実を知っても私は彼に何も聞けなかった。それは彼が好きだったし何よりこの関係を終わらせたくなかった。

でも耐えられなかった。彼が偽名を使っている事実が、実感してた愛情が疑惑に変わっていくのが耐えられなかった。

優しく撫でてくれた手も、抱きしめてくれた腕も、愛を伝えてくれた言葉も全て偽りなのかと思うと胸が張り裂けそうだった。


「私これ以上貴方に嘘つかれたくないの…」


真実を知れば別れるかもしれない。けれどこんな気持ちのまま彼とは付き合えない。一緒にいたいだけだったのに、どうしてこんな事になってしまったんだろう。涙が止めどなく溢れてしまって全く止まらない。

付き合い始めたあの頃のように、ただ純粋に彼を愛していたかった。


「お願い……本当の事を教えてよ…零くん」




20.1007

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