053話 今の私を見て



凛に連行されるまま江ちゃんと二人連れてこられたそこで、こっぴどく叱られているのはどうしてでしょうか。


「お、お兄ちゃん。何でそんなに怒ってるの?」
「はあ?泳げるようになって日も浅いこいつを海に放り出して何考えてんだってんだよ」


それに、真琴だって――と続けられた呟きに江ちゃんは首を傾げていたけれど、私には凛の心が垣間見えたみたいで嬉しかった。

ただ、怒ってるんじゃないんだってわかったから。


「凛、大丈夫だから」
「!……ンな顔したって引き下がらねぇぞ」


眉間に寄ったしわと引くつく口元が何かを耐えているようで、それが何かなんてわたしには分からないけれど、凛の機嫌はどうにも直りそうにはない。


「あのー、私先に調味料届けてきますね」
「いやいや、それは私がするし、江ちゃんは折角のお兄ちゃんとの時間をね」
「でも、お兄ちゃん、さっきからまつり先輩の手離さないから」


離れたくないんだと思いますよ。とサラッと言っちゃう江ちゃんの言葉に改めて自分の手に視線を落とす。繋がれている手の主は、今、目の前で赤面していらっしゃる(片腕で顔を隠すように覆ってるけど)赤髪の少年で。

そのくせ繋がった手を離さず、ぐいっと引っ張るもんだから、凛との距離はぐっと縮まってしまった。


「じゃあ、適当にごまかしておくので、早めに戻ってくださいね!」
「あ、待って!」
「――行くな」
「!っ」


笑顔でそんなことを言い残した江ちゃんは、くるりと背を向けてその場から退散した。追いかけようとした私の身体は、すっぽりと凛の腕の中。

後ろから抱きしめられてるみたいな感覚に頬に熱が集まってくる。

凛のシャンプーの匂いとか、熱い吐息とか、そんな諸々が私の心をかき乱す。そんな、泣きそうな声で引き留めるなんてずるい。


「……凛」
「ん」
「暑い…っ」
「おう」


離してとは強く拒絶できなくて、やんわりと言葉にしてみるも、分かっているのかいないのか、彼の手が離れることはなくて、さっきよりも腕に力が入ったような気がした。


「海は危ねぇんだよ」
「わかってる」
「わかってねぇよ!」


知ってる。凛の大事なモノ奪った海だから。まこのトラウマを作った海だから。どれだけ危険な場所か、容赦ない力を持っているのか。私だってよく知ってるよ。


「ねえ、凛」
「……なんだよ」
「私、信じてるから」
「は?」


何を――。
そう言いかけた凛の言葉を遮るように、振り返った私の人差し指が彼の唇に触れる。驚いたように息を呑む彼は、それでも真っ直ぐ私を見下ろしていた。


「昔のように戻りたいとは言わない。でも、リレーの約束は守って」
「!――…」
「オーストラリアで何があったかなんて聞かない。ハルとの勝負にこだわる理由とか、どうして、私を賭けにしたのかとか」
「ちが――っ」


利用したわけじゃない。ハルとの勝負にお前をだしにしようとしたわけじゃない。そう彼の瞳が真っ直ぐに私へと訴えるそれは、きっと本心だろう。でも、それでも、凛にとって一番大事で、最優先事項は、ハルとの勝負の決着なんだと思う。

私は二の次なんだよ。
凛自身自覚がないのかもしれない。でも、それは、二人の間にいる私だから分かる事なの。


「つーか、聞いてたのかよ」
「……ごめん」
「はあ……」


でっかいため息をついた後、凛は私をそっと解放してくれた。


「お前のことは本気だ。ハルになんかやらねぇ」
「私は元々凛のものなの?」


その言い方。自分の大事な玩具を取り上げられた子供が駄々をこねているようだと思った。凛の言葉に笑いながらそんなことを言う私は今、貴方にも、ハルにも答えを返すことはできません。


「はぐらかしてんじゃねぇよ」
「……っ」


凛の手が私の手首を捕まえる。掴まれた手首が痛い。締め上げられるそれに顔を上げた私が見たのは、私よりもっと痛そうな顔をする凛だった。


「俺は、俺は今でもお前が好きだっ」
「っ!?」
「本当は、ハルの傍にお前がいるってだけで、アイツへの嫉妬で狂いそうになる…っ」


ああ。だから嫌だったのだ。
皆の前から消えてなくなってしまいたいと願ったあの日、誰も傷つけたくないからと涙を流したあの日。凛が泣きながら私を探し出してくれたあの日。

本当に私は消えてしまいたかった。


「俺のこと好きじゃなくてもいい。それでもいいから、今は俺を選べっ」
「――っ」


そんなの出来るわけがない。
凛の気持ちに甘えてこの身を委ねられたらどんなに楽だろう。


「凛」


今は、この弱さに取り込まれてしまって自分を見失っている暇などない。


「私は、人魚姫として再スタートしたい」


人魚姫の様にただ王子様の幸せを願って身を引くことなんてもっと出来ない。


「自分の決めた目標に向かって、自分の力で真っ直ぐ進んでいきたいの」


私は私の幸せもちゃんと大切にしなきゃいけないんだ。


「凛の気持ち凄く嬉しい。このまま凛の胸に飛び込めたら、きっと幸せなんだと思う」
「だったら――!」


それでいいじゃねぇか。
凛の言葉に首を横に振る。


「私の中にハルがいる。ずっと傍で、ただ支えてくれていた人がいるの」
「――っ」


ハルの存在を無視して凛の胸に飛び込むなんてできない。私の中にハルの存在がある限り、私は、凛の気持ちには応えられない。


「私の初恋は、四年前に終わったの」
「!……っ」
「これからは、今の私を見て。四年前の私を捜すんじゃなくて、今の私を」


凛が囚われている過去の私はもういないの。今、貴方の目の前にいるのは、過去の初恋を乗り越えて、悲しかった過去を乗り越えて、目標に向かって突き進む自分だ。

あの時の私は、もう今の私じゃない。






・・・・・

「まつりは分からないだろうな」
「え……?」


松岡とまつりちゃんのツーショットを見つけて今にも飛び出していきかねなかった真ちゃんを何とか引き留めて今に至るわけだが、突然相棒の口から飛び出した言葉に思わず疑問を口にする。

ここから二人の会話はばっちり聞こえていたわけであるが、真ちゃんが反応したワードは、四年前の自分でなく今の自分を見てほしいといった彼女の言葉だった。


「松岡が、まつりを探し出して連れ帰ったあの日を覚えているか」
「え、ああ。赤司に凄い剣幕ぶつけられてた時の」


あれは俺でも真正面から対峙できるかわからねぇ。たぶん、それはあの場にいた全員が感じていたことだと思う。


「あの時、松岡は微動だにしなかったな」
「まあ、言われてみりゃ……」
「四年前のまつりは確かに今のまつりとは違う。心身ともに成長して、自分の意志で前へ進もうと頑張っているのだよ」


だが――。
そう続けた真ちゃんの言葉の先を俺は聞かずとも理解してしまっていた。


「俺の気持ちは変わらねぇよ」


まつりちゃんが笑顔で去っていった方向を真っ直ぐ見つめて、何とも形容しがたい表情を見せる松岡の目はそれでも優しかった。


「一度でもまつりに魅せられた男に、過去も未来も関係などない。ただ、アイツのもつ根底にあるものに惹かれたのだからな」
「……」


松岡は、生半可な気持ちでまつりちゃんを好きでいるんじゃない。もしかしたら、七瀬より先に気づいてしまうんじゃないだろうか。

惚れてるだけじゃ救えない、あの子の生まれもった運命の重さを。




(今の私を見て)
で、盗み見とか趣味悪くないッスか
!悪い、悪い。出るに出られなくなってさぁ
別に。俺の進行方向にお前たちがいただけなのだよ
はぁ?…ああ、それより、アイツの事気をつけといてください
言われるまでもない
心配ないって
……真琴からも目を離さないでくれると助かるンスけど
!お前も根っこは昔と変わんないな
いてっ!何すんだよっ
可愛い奴だなあと思ってさ
俺は男だっ!


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