042話 動き出す影
「まつりは見つかったのか?」
「すみません、若!」
「下がれ。報告もないのに、どの面下げて俺の前にいる」
「い、いや、それが目星が……」
「……どこだ」
「岩鳶という海に面した町にいるんじゃねぇかと」
薄暗い部屋の中、差し込む月の光が男の顔を照らし出す。まつりと瓜二つの顔を持つ男の目は鋭く尖っていた。
報告に来た男は、顔も上げられずに淡々と調べた内容を報告するが、いかんせん確証を得られていないので、ハッキリと口にはできずにいた。
「岩鳶に、四年前、人魚姫と呼ばれるほど水泳に優れた嬢ちゃんがいたんだそうで、その嬢ちゃんが、まつり嬢と同い年だそうです」
「それだけか?」
「姐(あね)さんが昔、水泳でトップ取ってることを思えば、まつり嬢が、その血を引いてんのも納得できると思ったもんで」
「あの女のことを口にするな」
「へ、へいっ」
先ほどよりも低く地を這うような声に頭を下げ続ける男は身をこわばらせる。
「組を捨てて俺の大事なもんを奪って逃げた女だぞ。――生きていたら容赦しねぇ」
「――……」
「次の組合が終わり次第、岩鳶に発つ」
「へい」
まつりは必ず取り戻す。
男の声が部屋に静かに響いた。
・・・・・
「あ、もしもし」
(あら、テツヤ君ね。元気にしている?)
「はい。まつりも元気です」
もう夜が明けるかと思われる刻限、皆も寝静まった静かな部屋で、黒子が電話をかけたのは、今は海外にいる義理の母へだった。
「まつり、イップス克服できたそうです。笑顔が戻りました」
(!――そうっ)
「――戻ってはこれそうにないですか?」
(そうね――)
歯切れの悪い言葉は黒子の予想した通りだった。それでも、まつりが喜ぶ顔を見たかったがゆえに、遠く離れた地にいる彼女へ連絡を入れたのだ。
幼いころは、お母さんはいつ帰るの?と毎日のように聞いていたまつりも、今では何かを悟ったのか、何も言わなくなっていた。
(出来れば、まつりに表舞台に出るなと止めてほしいの)
「え――?」
(そろそろ気づかれるわ。四年前、あの子が水泳で才能を開花させたとき、動きがあったのは、覚えているでしょう)
「はい……」
(あの子には悪いけど、凛君が離れて泳げなくなったのは、あの時は幸いしたわ)
携帯を握る手に力がこもる。幸い――。そんなことを言えるのは、まつりの傍で、あの時の絶望した姿を見ていないから言えるのだ。
静かな怒りが沸き上がったが、そこは内に留めた。
(テツヤ君、お願いよ。あの子を隠して。絶対に、アイツらに渡さないで)
「――はい」
自分勝手な女だ。
そんな言葉が頭を過ったが、それでも、この人はまつりのたった一人の母親なのだ。血のつながりはなくとも、自分にとってももう、切り離せない大切な妹だ。
ツーツー……
静かな部屋に無機質な電子音。
携帯をベッドに放り、横になれば、嫌な考えばかりが頭を過る。
まつりが水泳を始めたのは、七瀬君や、橘君がスイミングスクールに通い始めたからだった。まつり自信、自分の母が、昔水泳界で名を馳せた人物だということを知らない。
だから、自分が他に比べて、水泳に優れていることの意味を知らない。
(それでも、あの子の才能が開花したのは、あの子自身が努力を怠らなかったからですが)
人魚姫のようだ――。
そう呼ばれるようになって、誰かが囁いた。久留間碧が再来したようだと。久留間碧は、まつりの母親であり、まつりがまだ生まれる前に、忽然と水泳界から姿を消した幻の選手だと言われている。
今でも、彼女の根強いファンがいるとも聞く。
誰かの囁きはこの岩鳶に留まらず広まってしまった。その噂を耳にした奴らが動きを見せた時、まつりは泳ぐことを諦めてしまった。
(そう、松岡君がオーストラリアに発つことになって、全部を放り投げてしまいましたね)
それが幸いしたと彼女の母親は言ったが、確かにそれも一理あったのだろう。それでも、あの頃を思い返せば、彼女の周りにいた誰一人として、そう口にできる人間はいないとも言い切れる。
(動き出す影)
そう、あの頃僕たちは――
キミがこれ以上、壊れてしまわないように
必死だったんだ。