041話 傍にいる理由なんて
「兄さん!兄さん!」
「はいはい。どうしま――!?」
帰って早々、兄を探してバタバタと走り回った私は、漸く見つけた兄の腕の中に飛び込んだ。驚いたように慌てて抱き留めてくれた兄に思いっきりぎゅーっと抱き付く。
「まつり?」
「私ね!泳げたの!」
「!?――」
凛とは駅で別れて真っ直ぐに帰宅した。別れ際、また、一緒に泳いでリハビリしていこうと言ってくれた凛に心の底からのお礼を伝えて、笑顔で別れた。
またいつか――。
その約束は、今度はきっと遠い未来に果たされるものじゃないと思うから。
騒々しい私の帰宅に何事かと部屋から出てくる涼太兄と、征兄ちゃんにも笑顔で報告した。
「そうか。じゃあ、今日は祝杯に外食でも行こうか」
「ほんと?」
「ああ。頑張ったね」
優しく頭を撫でてくれる征兄ちゃんと、いつもは一緒に騒ぐ涼太兄までも、優しく私を見守ってくれていた。兄さんは、本当に自分のことのように嬉しそうに、「おめでとうございます」と、ぎゅっと抱きしめ返してくれた。
「まつりっち、何食べたい?」
「んー」
お祝いムードそのままに、家を出た私たち四人は、運転を征兄ちゃんに任せて目的も決めぬままに出発しようとしていた。
「あ、ハルも誘っちゃダメ?」
「僕は構いませんが――」
「俺も別にいいっすけど……」
兄さんと涼太兄の視線が征兄ちゃんに向けられる。最終決定権はやはりこの人にあるようだ。ごくり、と唾をのみ込んで返事を待っていれば、征兄ちゃんは、振り向きざまに優しい笑顔を向けてくれた。
「呼んでおいで」
「はいっ!」
私の家からはそんなに遠くないハルの家は、車では少し入り組んでいて行きにくい場所にあった。だから、征兄ちゃんの言葉に従って車から降りて、一直線にハルの家まで目指して走った。
「赤司っち、許しちゃうんすね」
「涼太だって許しただろう?」
「まあ、そうなんすけどー」
「何だ、不満があるなら、今からまつりを引き留めて泣かしてきたらいい」
「うっわ、鬼かアンタ」
ねえ、黒子っち。
と続ける黄瀬君はスルーして、まつりが走っていく先を目で追う。今回、泳げたとまつりは嬉しそうに語ったが、それに尽力したのは、果たして、七瀬君一人でしょうか?
今日は、松岡君に会う予定だと話していた。つまり、今日、あの子の傍にいたのは、松岡君の方だ。
「七瀬君は、どう思うでしょうか」
「――まあ、気持ちのいいものではないだろうね」
「え?なんすかそれ?どういう意味?」
一人取り残されている黄瀬君に答えを与えてやるものは、ここにはいなかった。僕の考え過ぎならそれでいい。でも、僕なら、やっぱり、悔しくて、嫉妬でくるってしまうと思います。
水泳のことはよくわからないですが、ずっとまつりの水への恐怖を傍で克服してくれた七瀬君だからこそ、今回のことは、こたえると思うんですが。
「戻ってきたみたいだね」
「!………」
ああ――。
まつり、君は、あの子にとって、何にも代えられないくらい大事な存在なんだと、自覚していますか?
七瀬君がまつりに寄り添う姿に彼との幸せな未来を垣間見た気がした――。
兄としては少し、複雑ですが。
・・・・・
「ハル!一緒にご飯行きませんか?」
「……」
何度もなるチャイムに苛々しながら扉を開ければ、外に立っていたのは、今俺の頭を悩ますその人だった。
呑気な誘いに思わず眉間にしわが寄る。
「あのね!ハルのおかげだよ!私、泳げたの!少しだけど、泳げたんだよ!」
「……俺は別に何もしてない」
「凛が、言ってた。ハルが、私の水への恐怖を克服してくれたからだって」
!――……。
凛の奴、一体どういうつもりだ。そんなことまつりに言って。アイツが何を考えてるのか、理解できない。
「私、リレーがしたかったの」
「?すればいい」
「羨ましかった。皆の応援しかできなかった自分は、あそこには行けないんだって、ずっと寂しかった」
凛が転校する前、四人で出たリレー。陰でずっと支えてくれていたのは、まつりだった。特に俺には手を焼いていたのをよく覚えてる。
凛よりも、俺にばかり構っていたことを、凛がよく思っていなかったことも、知っていた。
そんな俺たちは優勝して一番にまつりの元へ走ったものだ。駆けつける俺たちを泣き笑いで出迎えてくれたまつりがそんなことを思っていたなんて、今の今まで知らなかった。
「凛がね、リレーの後、約束してくれたの」
「?」
「いつか、私も一緒にリレー泳ごうねって」
私、今日まで忘れてた。ううん、正確には、たぶん、全部諦めちゃった自分が無理に忘れようって記憶に鍵をかけたんだと思う。
そう、悲しそうに目を伏せるまつりに思わず伸びた手は、彼女に届く前に行き場を見失い、宙をさまよってしまった。
「ハルは、一緒に泳いでくれる?」
――俺はフリーしか泳がない。
「ああ」
――俺は、お前とまた泳ぎたい。
「ありがとうっ」
――その笑顔を失いたくない。
「でも、俺はフリーしか泳がない」
――俺の手で、守っていきたい。
「分かってる!」
――たとえ、お前が凛を選んだとしても。
「ほら、行こう!今日はお祝いでご飯食べに行くの!」
――俺は変わらず、傍にいる。
「引っ張るな」
「早くー!」
お前の一番が凛だとして、俺は、お前を支えてやれる二番手でもいい。それでも、お前が笑ってくれるなら、きっとそれが一番いい気がする。
暫くは、この胸の痛みとうまくやって行こう。
(傍にいる理由なんて)
ハル、汚れてるよ。
ああ、悪い。(指で拭って舐めとっちゃうまつりちゃんに三人の目は点)
あれを自然にやっちゃうってどういう事っすか。
昔からああなんで、何とも……。
テツヤ、少し、まつりの教育が甘いんじゃないのかい?