037話 泡沫の人魚姫



とりあえず、練習すっぞー。との部長さんの声に私は脱ぎかけていたジャージのチャックから手を離した。

止めようとしていたまこが、ほっと胸をなでおろし、ぽんぽんと頭を撫でるのをじと目で睨み上げる。


「はい、あっちで大人しく座ってる」
「私、見学者じゃないもん」
「急いで水に入ろうとしないほうがいいよ。まだ、メンタルが完全じゃないんだから」
「!――…」


自分で言ってただろ。そう優しく諭すまこの言葉に反論する術は持ち合わせていなかった。だって、自分でそう心配して、ここで泳ぐことを拒絶していたのは、さっきまでの自分なのだから。

凛とハルが人の意見無視して勝手に勝負つけようとするから、売り言葉に買い言葉みたいなノリで、さっきはああ言ったけど、実際今、私の身体がどこまで水に拒絶反応を起こさないかはわからない。

そもそも、泳げるかも疑問だ。


「ハル、勝負までにバテんじゃねーぞ」
「凛こそ、逃げるなよ」
「ハッ、誰が」


あそこはいまだに火花を散らしている。それに小さく溜息をついて、まこに言われた通り、隅に腰を下ろして膝を抱えれば、その隣に江ちゃんが座った。

心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「大丈夫だよ。私、負けないからね」
「で、でも、私はできればお兄ちゃんのお嫁さんになってほしいので、お兄ちゃん応援します!」


江ちゃんの言葉にずる、と抱えていた腕が膝から落ちた。江ちゃんを見やれば、何やら目を輝かせてるんるんとしているではないか。

これは一体全体どういうことだ。


「な、なんで…?」
「だって、そうすれば、まつり先輩は私のお姉ちゃんになるわけですもん!私の念願の夢が叶います!」


やだ、可愛い。
思わずきゅん、とときめいた私は、隣にいる江ちゃんにぎゅっと抱き付いた。あわあわと慌てるさまがまた可愛らしく、頬が赤く染まっている。

私はずっと江ちゃんを妹のように思ってきた。そんなの、凛のお嫁さんにいかなくたって、ずっと江ちゃんが望むなら、私はお姉ちゃんでいる。


「そんな繋がりなくたって、私は江ちゃんのお姉ちゃんでいるっ。これからもずっと」
「!――っ」


こんな可愛い妹、姉を止めろと言われたって止めるもんかと思う。そっと私にしがみつく手がいじらしくて、可愛くて、もう、江ちゃんと結婚したいです。


「まつりちゃん、頭の上花飛んでるよー」
「うん、何か心の声がだだもれだなぁ…。ハル、また強力なライバル登場だね」
「関係ない」


三人が話していたことは何だかよく聞き取れなかったけれど、取り敢えず合同練習開始です。


タイムトライアル――。
順に皆が泳いでいく中、怜君は非常に困ったように忙しない。これ、もしかしなくても私の勘あたってるんじゃないだろうか。


「怜く――」
「次、竜ヶ崎くんの番だよ」


私の声に被さるようにまこの声がして、びくっと怜君の肩が跳ね上がる。ここまできたらさ、と苦笑するまこを鬼かと思うほど怜君が哀れだったが、まあ、溺れても、ハルが何とかするだろう。

大丈夫だよ、うん。

ああ、私ってなんて冷たい人間。でもね、私もやられたんだよ。ハルに何度もプール落っことされてね。ああ、懐かしいな。(遠い目)


「まつり先輩、竜ヶ崎くんの番ですよ」
「あ、うん」


隣から揺すられて漸く我に返った私は、今まさに飛び込もうとしている怜君に視線を映した。構えきれいだし、初心者じゃない?

笛の合図とともに地を蹴った怜君のフォームは完璧。すっごく綺麗だった。

でも、次の瞬間、凄まじい水しぶきが上がる。


「「ええ!!」」


皆の驚きの声が上がる中、上がってこない怜君を見て、すぐさまハルが飛び込んだ。それを黙って見送った私の足は、確かに前に出したはずなのに、床に縫い付けられたように動きを止めていた。

あれ、この感覚前に――。


ふと頭を過るが、それは渚とハルが怜君を連れて上がってきたことですぐに掻き消えてしまった。

今のは何だったのだろうか。


「怜君、大丈夫?」


ひどく咳き込む怜君に駆け寄った時は何の支障もなく足が動いた。そっと背中に手をあて、さすってやれば、弱弱しいお礼の言葉が返ってくる。

ひとまず何ともなかったことに皆でほっと胸をなでおろした。


「怜ちゃん、泳げないなら最初からそう言ってくれればよかったのに」
「言えるわけないでしょう!」


うん、確かにそうだ。
自分から恥をさらすなんてこと、怜君のような完璧主義者なら尚更のこと言い出せるはずがない。


「さて」


ハルの番ですね。
怜君からプールに視線を戻せば、自然と皆も目がそちらに向いた。

静かな空気が漂う中、笛の音で飛び込んだハルは本当にイルカのようにすいすいと気持ちよさそうに水の中を行く。

あれに連なって泳ぐのは本当に楽しかった。


不意に隣で息をのむ音がした。ちらりと横目に窺えば目を輝かせている怜君の姿。彼もまた、私たち同様、ハルの泳ぎに魅了された一人となったようだ。

うん、憧れの感情は人を大きく成長させるんだよ。


私だって、ハルに憧れて、頑張って、水とお友達になったはずだったのに。


ぎゅっとジャージを握る。いつから、私はあの隣を泳げなくなってしまったのか。

水を怖がるようになったのは、凛がいなくなって直ぐの事だった。自分でもよくわからない変な感覚で、朝、顔を洗うときも、お風呂に入る時も、どこか体が強張っていた。

異常だと感じたのは、学校の授業でプールに入れなかった時だ。手足が痙攣して顔が真っ青になっては、体育教師が慌てて保健室へ運んでくれた。

今はそんなこともないけど、一時期は本当に凄かったのだ。


プールから上がってきたハルがそっと私に手を伸ばす。


「泳ぐんだろ?」
「あ……うん」


伸ばされた手にそっと自分のを重ねる。それを包み込んだハルにぐいっと手を引かれ、身体を起こした。


「よっし。じゃ、はじめるぞ。嫁取り合戦」


何て命名だ。
渋い顔をする私とハル、加えて二階で観覧していた凛は、そろって、はしゃぐ部長に溜息をこぼした。


「まあ、ハンデは必要だろう。まつりくんは、25メートルハンデで100でどうだ」


一番乗り気なの、この人じゃないの。
てゆーか、ハンデ25メートル?私、大分ブランクあるんだけど、大丈夫かな。


「俺は別にいいぜ」
「俺もいい」


アンタたちはいいでしょうよ、別に。
もう、でも本当なら私だって結構泳げる子なんだから。人魚姫の異名までもらったほどだったんだから。

ブランクあっても、水と心が通じれば元通り泳げる。

ジャージのチャックをおろして、水着姿になれば、二人が揃って顔をそむけた。

え、なに。その可愛らしい反応は。


「まつりちゃんって、結構着やせするタイプだったんだねー」
「は、破廉恥ですよ!」
「何が?もうやだなぁ。怜ちゃん、何想像してるのー」
「ふたりとも!」


そりゃ、女の子だもん。それなりに成長したもん。小学生の頃みたいにまっ平じゃありませんともね。


「まこ、持ってて」
「う、うん。……本当に大丈夫?」
「大丈夫」


大丈夫。もう、怖いとは思ってないし、原因だと思っていた凛も今はここにいる。私の傍にちゃんといる。


「じゃ、位置について、」
「……」
「よーい」


ぴ、と笛の音がして、自然と足は地面を蹴っていた。懐かしい感覚と、水が一気に押し寄せて私を優しく包み込む感覚。

全部、全部知っていて懐かしいはずのその中で、小さな声が囁きかけてきたのを確かに聞いた。


『戻ってきたの?姫。――一度拒絶したくせに』


「!っ!?」


今なら泳げる。今は、もう大丈夫。
もう何も怖いことなんてない、なんて安易な考えが私を再び水の恐怖へと誘ったのかもしれない。


「まつり!」
「おい、大丈夫か!」


水の中から何かに引き込まれたのかと思った。
足がもつれて、うまく動けなくて、息をすることも出来なかった。


「まつりっ、落ち着け。もう平気だ」


溺れたのだとわかったのは、強い腕に身体を引かれて、水面に上がった時。プールから上がって、真っ暗な視界が開けて、凛が血相を変えてこちらまで走ってきた時だった。

ハルの腕の中で、荒い呼吸を繰り返す私に伸ばされた手が、そっと頬に触れる。


大丈夫か、と駆け寄る鮫柄の部長さんや、凛の後輩くん。渚やまこに怜君、江ちゃんが皆寄って集って、心配そうに顔を歪めていた。


「まつり……、おまえ、なんで」
「まだ、だめだったぁ……っ」


まだ、だめだった。
それが、何を意味するのか、凛は知らないし。知る必要もない。ハルは眉間にしわを寄せていて、まこは深刻そうに黙りこくっていた。渚は、何が何だか分からなくて慌てていて、怜君や江ちゃんなんて今にも泣きそうだ。


凛の声が震えているのは、どうして。さっきまで、バカみたいにハルと喧嘩してたじゃない。そんな風に私を見ないで。

昔のように、人魚のように水と戯れていた私はもういないんだよ。

あの頃の私は、もう泡沫のように消えてなくなってしまった。

金槌なんて簡単な言葉じゃ片づけられないくらい、それは時間が積み重なって、身体を縛る鎖となった。


確かに、今――
水が私を拒絶した――。




(泡沫の人魚姫)
水が怒っていた。
そんな気がした。


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -