020話 奔走と停滞



「ハルー?」
「……」


風呂場の扉を開けて中へと踏み入れば、ぶくぶくと泡を作って遊んでいるハルがこちらを見上げた。視線を合わせてしゃがみこむ。


「おはよっ」
「……ああ」
「そろそろ上がりましょうか。まこが鯖焼いてくれてるよー」


まことはハルの家前でばったり遭遇して、ハルの朝食係りと風呂場に呼びに行く係りで別れた。勿論私はハルを呼んでくる係りであるのでここにいるわけなのだが、ハルさん、さっきから上がる様子がありません。

お風呂の縁に腕を置いてその上に顎を乗っけて見守る私を見るでもなく、ぼーっと天井を見上げている。


「ハルー?」
「……ああ」
「わっ」


ざばっと勢いよく立ち上がるものだから、こちらにも水が飛ぶ。慌てて首を降れば、滴が散った。


「悪い。……タオル使っていいから」
「あ、うん」


何だろうか。
ハルの様子がちょっとだけ変だ。何がどう変かと聞かれればうまく答えられないけれど、分かりやすく言うなら、いつも以上にぼーっとしているということだろうか。

頭にかけられたタオルを受け取って顔を拭う。

まあ、私の単なる思い過ごしならいいんだけどね。


先に行ったハルを追ってリビングに向かえば鯖のこんがり焼けたいい匂い。取り敢えずハルのご飯を待ってから、私たちはあまちゃん先生の車にてDolphinsへと向かったのだった。


「青いペンキと、これと、こっちも?」
「うん、それくらいでいいんじゃないかな」
「あれ、ハルは?」


Dolphinsにて、皆で買い物していたのに、さっきまで傍にいたハルの姿が見当たらない。きょろきょろと辺りを見渡していれば、大きめの水槽前でシャツに手をかけているハルの後ろ姿を発見した。

慌てて後ろから飛びついて止めに入れば、むすっとした顔を向けるハルに大きな溜息をこぼす。


「駄目だよ、こんなとこで脱いじゃ」
「……」
「ハル、聞いてる?」
「聞いてる」
「そう?」


抱き付いたまま見上げて問いかけるも何となく反応の鈍いハルに首を傾げる。そんな私たち二人に好奇な視線が多く向けられていたことに気が付いていたのは、少し離れてみていたまこと渚の二人だけだったことに、後から気が付いたのは、また別の話。


それからは、もう一日があっという間に過ぎ去って行った。部活動勧誘のポスターを皆で作ってはハルの絵の上手さに引き抜きにあったり、プールのひび割れ補修やら、色あせた部分のペンキ塗りを皆でやったり。

とにかく、楽しい日々が続いた。


「随分綺麗になったのねー」


日傘片手に椅子に腰かけてのあまちゃん先生の言葉を受けて渚が「手伝ってよー!」との声を上げているが、紫外線が、とあまちゃん先生がプールに降りてくることはなかった。

私とハルはただ黙々とペンキを塗っている。


「わ、飛んじゃった」
「……顔についてるぞ」
「え、どこどこ?」
「動くな。取ってやるから」
「ん、」


手で拭ってくれるハルに身を委ねていれば、最後にぎゅっと頬をつままれた。真顔で引っ張るから、慌ててハルの手を叩けば、ハルの顔に笑みが広がる。


「ハル、ひどいっ」
「ふ、……まあ、いいんじゃないか」
「え、何が!?どういいの!?」


頬をさする私を一瞥してから作業に戻ったハルの手はペンキに汚れてしまっている。私の頬を躊躇いなく素手で拭ったのにもかかわらず、ハルはそれを気にした様子もない。

自分の手は汚れても、私の事は気にしてくれるんだね。


「何だ」
「!……何でもないっ」


ハルの横でせっせと作業に戻った私とハルをまこが優しい顔で見つめていたことを私たちは知らない。皆がせっせと作業する中、赤いポニーテールを揺らして江ちゃんが差し入れ片手にやってきてくれた。


「まつり先輩もどうぞっ!」
「ありがとーっ」


江ちゃんからの差し入れを皆で頂いて、暫しの休息の時間が流れた。






・・・・・

夕暮れの中、寮の部屋にただ一人。写真を見つめる凛の目は揺れていた。儚く、切なく揺れる瞳が捉えているものは、トロフィーを手に満面の笑みを見せる四人の少年たちの写真であった。

競泳のリレーで優勝した時の写真だろうか。先日廃墟となったスイミングクラブから拝借してきたものだった。

凛の目は、真ん中でトロフィーを手に笑う少年一人に向いていた。


「……」


ふと視線を外した凛は、手元に落ちていた自らの携帯を手に取る。スライドさせれば、少女のあどけない寝顔が広がった。


「…まつり……」


画面をなぞる指がとても優しい。まるで目の前にいる彼女自身に触れるようにそっと包み込むような手つきだった。

表情は写真を見ていた時と違って優しげでどこか温かい。


指が画面から離れ、電話帳を引っ張り出す。発信履歴の一番上に残された携帯のメモリーを選択すれば、画面は発信画面へと切り替わる。

プルル、と響く電子音を耳にあてて聞きながら、電話の向こうで優しい彼女の声が自分の名前を呼ぶことを期待した。

直ぐに出てくれるとそう、思っていた。


けれど、電子音は何度響いても切れることはなかった。無機質になり続ける電子音を耳にしながら、凛はそのうち発信を取消し、携帯をベッドに放り投げる。

画面が暗転し、彼女の寝顔さえも消えてしまった。


また一人の空間へと逆戻りすれば、気分は急降下だ。苛立ちを押し込めるようにベッドに横になっても、あの時傍にあった温もりは感じられない。

手に残っていたまつりの温もりは、もうどこにもなかった。


「……くそ、」


会いてぇ……
小さくこぼれた凛の心の声を拾ったものはどこにもいなかった。




(奔走と停滞)
あれ?
どうしたの?
や、何でも…(凛から着信?
まつり帰るぞ
あ、うん!今行くー!


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