011話 暗い水の底



「プール屋内なの?」
「ああ、らしいな」


兄さんにお迎えを頼んだ後(快く了承してくれました)凛と二人鮫柄まで戻る途中、さりげなく聞いてみた私の問いに、凛は我関せずといった感じで答えた。

ん?と思ったのは、凛が水泳部ならば、その答え方はおかしいのではないかと感じたからだ。


「凛、水泳部だよね?」
「……入ってねえ」
「!な、何で!」


驚いて声を上げる私を見て、複雑そうに顔を歪める凛は、それ以上何も教えてはくれなかった。どこか気まずい空気のまま鮫柄までやってくると、夜なのに何か騒がしい声が聞こえてくる。

おそらくハルたちが無断でプールにはいちゃってるんだろうけど、凛はそのことを知らない。訝しんでいる様子で、私を置いていってしまいそうだったので、慌てて腕を掴んだ。


「わ、私も行く」
「何、怖がってんだよ」
「こ、怖くない!」


一人でおいてかれたら、そりゃ怖いけれども、今は凛が皆と衝突して喧嘩になってしまうことのほうが怖い。それに私が一枚かんでいるなんてバレたら、とんでもないことになってしまうではないか。


「ほら、行くぞ」
「う、うん……」


兄が来るまでにはまだ時間がある。少しくらいなら大丈夫だ。不安な気持ちもあったけれど、再び凛が私の手を握ってくれたことにどこかほっとしている自分がいた。


「何で、こんな時間にプールに人なんかいんだよ」
「不法侵入とか……?」
「はあ?」


プールで何すんだよ、と心底不可解そうに口にして屋内プールの入口へと向かう凛に引っ張られる形で進んだ。もう、大分近い場所なので、声がはっきりと耳に届く。間違いなくハルたちだ。

渚の笑い声が反響して聞こえる。

隣の凛を伺えば、眉間のしわがすごい。恐ろしい形相になっております。舌打ちまで聞こえてきて、ちょっぴし怖いです。


「お前はここにいろ」
「え、や、待って!」


繋がれていた手がほどけた。一人置いて行かれそうになって、慌てて後を追う。背中の裾を掴めば、一瞬動きを止めて振り返った凛が小さく溜息をこぼした。


「行くぞ」
「う、うんっ」


結局は凛と一緒に屋内プールに忍び込んだ。ひょっこり顔を出した私たちを見つけたまこと渚が声を上げたと同時に凛の「帰れ!」との鋭い声が飛ぶ。

思わず肩を跳ねさせる私に気が付いたのか、小さく舌打ちをした。


「まつりちゃん、凛ちゃんと一緒だったんだね」
「う、うん……」


きっと、ここで私と会ったのは偶然だと証明してくれているのだろう。私が変に凛と仲違いしないように。渚の行為に甘えて、頷く。

しん、と静まり返る中、水が揺れ動く音が響いた。


「フリー」
「はあ?」
「言っただろ。俺はフリーしか泳がないって」


プールから上がったハルが、真っ直ぐに凛を見つめる。これは、ハルの口癖であり、ここ最近聞かなかった言葉でもあった。凛には、ハルが本当に伝えたいことが伝わっているだろうか。

ねえ、凛――。


凛から借りた学ランをぎゅ、と胸元に合わせて握りしめていれば、凛に向いていたハルの視線が私に向けられた。


「まつり、用は済んだのか?」
「!……」
「ハルちゃん!」


ハルの容赦ない一言が飛んだ。びくり、と肩を跳ね上げる私を見て、凛の瞳が動揺に揺れている。渚の制止の声も虚しく、私のお役目は露わになったようだ。


「済んだよ」
「じゃあ、帰るぞ」
「うん」


はっきりと答える私を見て、渚が泣きそうな顔をする。ごめんね、渚。せっかく、さっき庇ってくれたのに、台無しにしちゃったね。

ハルの方へ向かおうとしていた足は、後ろから手を引く凛に妨げられた。振り返った私が見たのは、今にも泣きだしてしまいそうな、凛の顔。

ずきり、と胸が締めつけられる。

――私は、凛にそんな顔をさせたくて、ここに連れてきたんじゃないのに。


「ハルに言われたから来たのか?」
「違うよ」


違うよ。それは違う。私がここに来たのは、私の意思だ。それは、ハルに左右される感情ではない。凛に会いたかったのは、本当だから。だけど、皆に頼まれてここまで凛を連れてきたのも、私なのだ。


「今日、皆で鮫柄へ行こうって話していた時に凛から電話があったの」
「!――」
「凛、私には昔のように接してくれるけど、皆とは違うっていうから、私がここに凛を連れてくる約束だったの」
「っ――…」


私の手を掴んでいた凛の手の力が緩む。しまいには力が抜けて、私と凛を繋いでいたものは、なくなった。

それを合図に凛の学ランを脱ぎ、軽くたたんで、いまだ動揺している凛へと差し出した。呆然とそれを受け取った凛は、ぐっと唇を噛んで、俯いていた。でも、次に顔を上げた時、私を見下ろす凛の瞳は、とても冷たい色をしていたんだ。


凛の手がどん、と私の肩を押しやる。後ろに傾いた身体は立て直すことが出来ないままに後ろに待ち構えているプールへと叩きつけられた。


「まつり!」
「まつりちゃん!」


私の名前を呼ぶ声をいくつか聞いた気がするけれど、私の身体は反応を示すことなく、暗い水の底に沈んでいった。落ちていくだけに任せているだけなのに、どんどん息が苦しくなって、身体が冷たくなっていくのを感じる。さっきまで手にあった凛の温もりも跡形もなく消えていった。

凛、ごめんね。
私はただ、皆と昔みたいに仲良くしてほしかっただけなの。


目を閉じて、苦しいのも全部知らないふりを決め込もうとした時だった。力強い手に手首を引っ張られたかと思うと、身体をしっかりと抱え込まれて、水面の上へと引き上げられた。

誰かなんて、見ないでも分かった。


「まつりっ!」
「げほっ、ぐ、けほ」
「凛ちゃん、何でこんなことするの!?」
「女の子突き飛ばすなんて、何考えてるんだ凛!」


水面から顔を上げたことで、一気に肺に入り込んできた酸素にむせる。咳き込む私を心配してプールの中にいた皆が集まってくる。凛に向けられる非難の声を耳にしながら、とめなきゃ、と思うのに、なかなか咳はとまってくれない。

いまだ私の身体を支えながら、顔に張り付いて視界を遮る髪をどかしてくれる優しいハルの手が、水の中にいるのに温かく感じた。


「まつり大丈夫か。頭打ってないな?」
「ん、」


頭に優しく触れる手が、傷を探るように動くけれど、頭は打っていないので何ともなかった。痛いのは心の方だもの。そこには痛みなんてない。ハルに身を寄せるようにして胸に顔をうずめれば、ぎゅっと、身体を抱きしめてくれた。


「凛、何してるかわかってるのか、お前」
「ハル、いいから」
「よくない」


よくなくない。大分落ち着いてきて、ハルの胸板を押して、少し距離を取ろうとすれば、その距離が開くことはなかった。ぎゅ、と抱きしめられる力が増して、私を離すまいとするハルに、冷えていたはずの身体が温もりを取り戻していく。


「やっぱり、お前はそっちなんだな」
「え……?」


ぼそりと呟かれた一言は、しっかり私の耳に届いた。凛の視線は私一点に注がれていた。虚ろな冷たい瞳は、暗い海の底の様な寂しい色をしている。私を拒絶するその色は、もう二度とあの時のように優しい色に染まることはないのだろうか。

凛の瞳から色を奪ってしまったのは、他の誰でもない私なのに。


ねえ、凛――。
私は、凛とハルたちとの間に線引きなんてしてないんだよ。




(暗い水の底)
――帰れ
言われなくても帰る
ハ、ハル待って!


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