【秋双】おかえり

その日、わたしはいつものように、アキくんと護国寺で陰陽術の練習をしていた。
「そうそう! 双葉、そのまま術を唱えて!」
突然政府から怨霊退治を命じられ、戸惑っていたわたしに、陰陽師について、陰陽術について教えてくれたのはアキくんだった。
「――急急如律令!」
巻物を見ながら術を唱え終わると、ぱあっとあたりが明るくなる。しっかりと結界が張られたのを見て、上手く行ったことにほっと胸を撫で下ろした。
「さすが双葉、すごいね!  覚えるのが早くて教えがいがあるなぁ」
アキくんは興奮した様子で頬を染めると、そう褒めてくれる。
「ううん、アキくんがわかりやすく教えてくれたおかげだよ。この間貸してくれたのもすごく勉強になったし!」
今まで学んだ術について、アキくんが日々書き留めていたものを先日貸してくれた。
「そう? よかった。他にもたくさんあるから、読み終わったら次のを貸すね!」
――アキくんがいなかったら、わたしはどうなっていただろうと思う。不安でいっぱいだったわたしに手を差し伸べてくれたアキくんは、わたしの中で大きな存在になっていた。
「アキくん、次はこっちの術を教え――」
次の巻物を開き、そう言いかけたとき。
「あ……れ?」
ぐらりと世界が回る心地がして、不意に目の前が暗くなる。そのまま倒れそうになったところを、アキくんが慌てて支えてくれた。
「だ、大丈夫? きっと急にいろいろな術をやりすぎて疲れてるんだね。陰陽術は体力も精神力も使うから、無理は禁物だよ。身の丈に合わない上級の術をしたりすると、命にかかわることもあるんだ」
アキくんは少し厳しい口調でそう言う。そしてなんのためらいもなく、すっとわたしを横抱きにすると――
「えっ、あ、アキく……っ!」
「……動かないで。横になれば、早く良くなるから」
アキくんはそう言うと、わたしを本堂に横たわらせる。
「……ありがとう。迷惑かけちゃってごめんね」
「気にしないで。これくらい当然だよ。苦しいときは言って。友達なんだし、頼ってよ」
アキくんの優しい言葉に、胸がじわりと温かくなる。わたしは、そのままゆっくりと目を閉じた。
「わたしも、アキくんが大変なときは必ず力になるから……なんでも言ってね」
立ちくらみでぼんやりとした頭で、そう呟く。
「……ああ、もちろん」
アキくんの答えに、なぜかほっとする。そうして、わたしはいつのまにか眠ってしまったようだった。


すうすうと寝息を立てる双葉を、静かに見下ろす。
「力になる、か……俺の気も知らないで、よく言うよね。君は」
双葉の命を泰山府君祭で使い、父を蘇らせる――そのために、俺は彼女に近づいた。しかし、それに迷いが生じたのは、いったいいつからだっただろう。
「アキ、くん……」
彼女が、微睡みながら俺の名を呼ぶ。そっと指で頬を撫でてやると、双葉の表情がふっと和らいだ。
――父を必ず蘇らせると誓った。その思いは、今も少しも変わらない。
「……なのに」
君を失うのが、なんだか惜しくなってきたよ――そう言いたい気持ちを、ぐっとこらえる。
「……双葉、俺と賭けをしてみようか」
君の運命は、君が決めるといい。そう呟き、俺はそっと彼女の額に口付けを落とす。
「さあ……俺から逃げなよ」
――彼女が、もう二度と俺に捕まらないように。どこかでそれを祈りながら、俺は彼女の傍を離れたのだった。


――アキくんが姿を消して、今日で十日になる。自分の部屋の障子を開け、わたしはまたアキくんのもとに式を飛ばした。
「本当にそいつ、なにも言ってなかったのか?」
猫姿の凪千がそう尋ねる。
「うん、なにも聞いてない……」
あの日目を覚ますと、アキくんはそこにはいなかった。すぐに式を飛ばしたけれど、なぜかアキくんに届くことなく蝶は戻ってきてしまった。それは十日経った今も同じだ。
「アキくん、やっぱり何かあったのかな……」
彼がいそうなところを探そうとしたけれど――
「……わたし、アキくんのこと、何も知らないんだな」
彼が普段何をしているのか、どこに住んでいるのか。アキくん自身のことを何も知らないまま、わたしは毎日のように護国寺に通い、彼と話していた。アキくんが帰ってきたら、陰陽術だけじゃなくてもっといろんなことを話そう。そのためにも、早くアキくんを探さなければ、とひとり手を握る。
「凪千、最近留守番が多くて悪いけど、今日もお願いできる?」
「ああ、任せとけ!」
そう答えてくれる凪千の頭を撫でると。わたしは立ち上がる。そのとき。
「あ……」
机の上に置かれていた紙の束が、風でがさりと音を立てる。アキくんが貸してくれた、彼が陰陽術についてまとめた冊子。まだ読みかけのそれをなんとなく手に取る。
「……持っていこう」
なにかアキくんの居場所の足がかりになることが書かれているかもと思い、それを懐にしまう。そしてもう一度凪千に別れを告げると、今日は上野あたりを探してみようと思いながら、部屋を出たのだった。

不忍池や日比谷公園でアキくんの姿を探すけれど、やっぱりその姿は見当たらなくて。わたしは少し休もうと大きな木の下に腰を下ろした。
「なにか手がかりがあればいいけど……」
家から持ってきたアキくんの冊子を、懐から取り出す。ぱらぱらとめくっていると、ふとある頁で手が止まった。
「式に強い念をのせる……術……?」
そこには、式に強い思いや願いをのせ、相手にそれを伝える術の方法が書かれていた。
「『相手が式を受け取れない場所に身を置いていた場合も、式を送り込むことが可能……強い思いは一種の呪いとも言えるため、上級の術である……』」
身の丈に合わない上級の術は、命に関わる――そのようなことを、先日アキくんに言われたのを思い出す。
「でも、もしアキくんがなにか危険な状況で、連絡がとれないんだとしたら……」
そう思うと、迷っている暇はなかった。
「……待ってて、アキくん。必ず見つけるから」
そう呟くと、わたしは霊符を握り、アキくんが記したその頁に熱心に目を通したのだった。

その日の夜。わたしは護国寺でひとり術を唱える。
「……」
アキくんへの想いを込めて、ちゅっと蝶に口付ける。そのまま手のひらを上に向けると、きらきらと光を放ち、式が飛んでいった。それを見て安堵した瞬間、ぐらりと視界が歪み、目の前が真っ暗になる。
「アキくん、どうか……」
ゆっくりと腰を下ろし、大きな木に寄りかかる。身体が楽になるのをぼんやりと待ちながらも、アキくんに無事に式が届くことを、わたしは祈り続けたのだった。


――俺が帝都を離れて、数日が経った。山奥の古びた小屋に結界を張り、誰にも居場所を悟られないようにしながら、俺は変わりばえのない毎日を過ごしていた。
「もう朝か」
外から小鳥の声が聞こえる。霊符を書いていたら、いつの間にか夜は明けていたようだった。
「……これは使えないな」
心ここに在らずで書いた霊符をくしゃりと丸めると、外の空気を吸おうと戸を開ける。
温かい日差しが、暗く淀んでいた部屋に差し込む。思わず空を見上げたものの、その眩しさが落ち着かなくて、すぐに俯いた。そのとき、視界の端に何か映ったような気がして、はっと顔を向ける。すると小さな蝶が二羽、仲良さげにふわふわと木の上を飛んでいるのを見つけた。それを見て、なぜかずきりと胸が痛む。
「……」
目を伏せ、部屋に戻ろうとしたとき。
「――アキくん」
彼女の声が聞こえた気がして、思わずばっと振り返った。
「っ!」
すると、見慣れた愛らしい蝶が、ふわふわと俺のまわりを舞う。
「どうして……」
目の前のそれに、恐る恐る手を伸ばす。やがて蝶はその手を見つけると、ゆっくりとそこに舞い降りた。式に触れると、彼女の様々な想いがどっと流れ込んでくる。それは、不安、心配、焦り、悲しみ……そして――
「っ……」
式に優しく口付ける彼女の姿が脳裏に浮かび、思わず息を呑む。
「……君は、本当に馬鹿だね。でも――」
これが、彼女が選んだ運命ならば。
役目を果たした式が、音もなく消えていく。俺はその憐れな蝶を、ただ静かに見つめていたのだった。


「アキくん!!」
護国寺で彼女を待っていると、双葉の悲鳴にも似た声が聞こえる。
「双葉……」
「どこに行ってたの? 何かあったのかと思って、すごく心配して……」
顔色が悪い彼女に、いつものように人がいい男を演じる。
「何も言わないでいなくなってごめんね。術で必要なものをとりに、遠出してたんだ。でも、双葉は本当にすごいな! 式に念をこめる術を会得したなんて!」
「アキくんが書いてくれてたのを見て、練習したの。アキくんにもしものことがあったらと思ったら、黙っていられなくて……ちゃんと届いてよかった!」
頬を赤らめ、安心した様子で微笑む双葉を見て、俺はすっと目を細める。
――可哀想な俺の友達。せっかく逃げる機会をあげたのに。これは君が選んだ不幸だよ、と心の中で囁く。
「アキくんのこと探そうと思ったんだけど、友達なのにアキくんのこと何も知らないって気づいて……よかったら、いろいろ教えてくれない?」
少し不安げに、彼女が俺を見つめる。
「うん、勿論だよ! 嬉しいなぁ。僕も双葉の話聞きたいから聞かせてよ」
「うん!」
そう言うと、彼女は俺に手を差し伸べる。
「あらためて……おかえり、アキくん!」
何も知らない双葉が、無垢な笑顔を向ける。
「うん……ただいま、双葉」
偽物の笑顔で繕いながら――。俺は愚かなその手をとったのだった。




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