私がお嬢になった日(ヤクザパロ)

私の人生の転機となった、最悪なあの夜を振り返る。

度重なる残業、上司からのパワハラ。その日は、身も心もふらふらの状態で繁華街を歩いていた。今日は久しぶりに日を跨ぐ前に帰れる。それが嬉しくて、いつもは恨みのこもった目で見る賑やかな街も、今日は穏やかな目で見ることができた。
「や、やめてください! 僕は知らない!」
そのとき、近くの路地裏でそんな声が聞こえた。思わず立ち止まり、そこを覗きこむ。すると、長髪で大柄な男の後ろ姿と、それに怯える大学生くらいの大人しそうな青年の姿が目に入った。それを見て、忙しくて会ってない実家の弟も、あれくらいの年齢だったなと思い出す。元気かな。ちゃんとご飯食べているだろうか。そう思うと、なんだか目の前の青年が気の毒でたまらなくなってしまった。
「あの、何してるんですか?人呼びますよ」
「……」
――このとき声をかけなければ、と今でも思う。私の気まぐれの憐れみが、後の運命を大きく狂わせるとも知らずに。私を見て、絡まれていた青年ははっとすると、ばたばたと逃げていく。お礼くらい言ってくれてもいいのに、なんて思いながら、私もそれに背を向け、足早にその場を去ろうとした。しかし、ぐいっと乱暴に腕を掴まれ、転びそうになる。文句を言おうとそれに振り返って、まず目があったのは龍だった。龍……? 男のワイシャツから覗く、その胸に踊る鮮やかな刺青を見て、血の気が引いていくのを感じる。
「あっ……」
しまった、関わってはいけない人だった。でもこっちから刺青見えなかったし、と誰にかわからない言い訳を頭の中で繰り返す。
「さっきの子、ここらで悪い商売してたからお仕置きしようと思ったんだよね」
低い声が上から降ってくる。私はまだ、顔を上げられていない。
「君が代わりに、お仕置き受けてくれるのかな?」
大きな手に顎を掴まれる。そのまま掬い上げられ、鋭い視線に絡め取られた。一重で切長の目。思っていたよりも圧が強い。
「す、すみま……」
しかし、男はなぜか首を傾げると、私の顔を四方八方から見つめた。
「……似てるな」
恐怖のあまり声を出せず、ただごくりと息を呑む。
「――おい傑、こんな雑魚に逃げられたの? だっせえ」
そのとき、後ろからまた違う声がして、びくりと肩が揺れる。そして聞こえた、なにかをずるずると引きずる音に、私は嫌なものを想像してしまった。
「ああ、ちょっと邪魔が入ってね。ねえ悟、この子どうかな」
ぐいと肩を掴まれ、強制的に後ろを向かされる。目に映ったのは、白髪の長身の男。黒髪の人よりもさらに背が高かった。彼は引きずっていた先ほどの青年から雑に手を離すと、大股で私に近寄る。そして、震えが止まらない私を興味深そうに覗き込んだ。
「へえ、すげえ。そっくりじゃん。いいんじゃね」
満足げに笑うと、この隙にと這って逃げようとしていた青年の手を、そちらを見もせずに踏みつけた。
「いだいっ!」
「こーら、お前はまだ俺との話、終わってないだろ」
痛々しい悲鳴に思わず目を伏せる。
「じゃあ悟、そっちは任せたよ」
黒髪の男はそう言うと、背後から私の耳元に口を寄せた。
「ねえ、ちょっと来てくれるかな」
痣だらけになっていた青年を前に、同じ目に遭いたくない私は、それに素直に頷くしかなかった。


連れてこられたのは広いお屋敷だった。場所はよくわからない。あのあと黒塗りの車に詰め込まれ、目隠しをされたからだ。
「ここに勤めてるの? あまりいい噂を聞かないから辞めた方がいいよ」
傑と呼ばれた男がそう呟きながら、私の財布から勝手に取り出した名刺や保険証を順番に眺める。
「あ、自己紹介がまだだった。私のことは傑って呼んでね」
突然、男がにこにこと胡散臭い笑みを浮かべて私を見た。しかし、状況に頭が追いつかない私はそれにどう反応すべきか悩んでしまい、口をつぐむ。すると、男はすっと目を細めて不思議そうに首を傾げた。
「ねえ、返事は? 人が自己紹介してるのに、無視はよくないだろ」
「……っ! よ、よろしくお願いします、傑さん……」
慌てて返事をすると、彼はまたにこりと微笑む。
「うん、よろしくね。君とは長い付き合いになるからさ」
そう呟くと、なぜか彼は先ほど取り出した保険証を真っ二つに折り曲げる。そして次々と免許証やカードを取り出すと、他のものも同じように折り曲げていった。
「あ、あの……」
「ああ、気にしないで。もういらないから処分してるだけ」
そう言うと、こちらをじっと見つめる。
「君の新しい名前はね、『──』。ここのお嬢の名前だよ」
「へ……?」
「彼女、いなくなっちゃってね。駆け落ちだと思うんだけど。彼女が帰ってくるまで、君がここのお嬢をするんだ」
そう言って、胸元から一枚の写真を取り出し、私の前に置く。そこには傑さんと、先ほどの白髪の男、そして真ん中に女性が写っていた。
「君にそっくりだろ?」
……たしかによく似ている。しかしその驚きよりも、彼が先ほど言っていた言葉への動揺で顔面蒼白になっていた。
「ま、待ってください、急にそんな……! こ、困ります!」
慌てて口を開くと、彼はそんな私を見て面白がるように笑う。
「ふふ、元気になってきたね。気が強い子の方が好みだよ」
そう言うと、傑さんはさっき折り曲げた身分証を、今度は紙切れのように裂いていった。それを見て、体が冷えていくのを感じる。
「……で、君に拒否権あると思う?」
「っ!」
「まあ、そんなのないから、ベラベラ喋ったんだけど。お嬢がいなくなっちゃったのも、一部の人間しか知らないんだよね」
心臓を鷲掴みにされたような心地がする。呼吸がうまくできない。目の前が真っ暗になって、体の震えが止まらなかった。
「あーそうだ、気が効かなくて悪かったね。ちょっと待ってて」
彼はそう言うと、どこからか飲み物を持ってきてくれる。
「はい、お茶。飲んで」
「あ、ありがとう、ございます……」
正直そんな気分ではなかったけれど、飲まないと何をされるかわからなかったので、その湯呑みに手を伸ばす。
「……?」
……変な味がするような。緊張で味覚がおかしくなっているのだろうか。
「ちゃんと全部飲んでね」
そう言って、じっと見つめられる。その圧に耐えかねて、言われるがまま、私はそれを飲み干すしかなかった。
「うん、いい子だね」
私の湯呑みを手に取り、飲み終えたのを確認すると、ゆっくりと立ち上がる。
「部屋に案内しよう。さあ、おいで、お嬢」
震える膝をなんとか抑えて、彼の後に続く。
――逃げなきゃ。それもできるだけ早く。大きな背中を見上げながら、そう固く決意したのだった。


部屋に案内され、一時間が経過した頃。見張りはいないようだった。逃げるなら、これくらいのタイミングがいいんじゃないだろうか。バレた時が恐ろしいけれど、きっとまだ厳重な対策もされてないし、こんな早くに逃げ出すとは向こうも思わないだろう。……うん、たぶん。
静かに襖を開ける。大丈夫、誰もいない。人の気配がしないお屋敷だが、他に人は住んでいないのだろうか。
「早く行こう……」
こっそりと抜け出すと、闇に溶けるように足早にそこを後にする。月が雲に隠れているのを確認しながら、もう二度とここに戻ってこないように祈ったのだった。

「まずはどこかに匿ってもらわなきゃ」
あまりにもスムーズにお屋敷から出ることができて、拍子抜けする。そのせいで、さっきまでの出来事が全て夢だったのでは無いかと錯覚してしまうほどだった。
近くに交番は見つけられない。夜遅いのもあって、灯りがついているお店も見当たらなかった。ここは郊外なのだろうか。
「なんで、コンビニもないの……!」
だんだん足が重くなっていく。
「っ……」
しばらくして、冷や汗が止まらないことに気づいた。何故か視界も霞んでくる。
「あ、れ……」
胸が苦しくなって、たまらずその場にしゃがみ込んでしまった。体がおかしい。久しぶりに走ったから……? でも、こんなところで立ち止まるわけにはいかなかった。
「少しだけ……休もう……」
近くに公園があるのが目に入る。なんとかそこまで這っていくと、一本の大きな木に隠れるように寄りかかった。
「ふぅ……」
……なんでこんなことになったんだろう。なんてことない大学を卒業して、無駄に偉そうな上司の下で馬鹿みたいに働いて。もっといい人生を送って、ちゃんと定期的に実家にも帰っていれば、あの大学生を見て弟を思い出して、声をかけたりなんかしなかったかもしれない。
「っ……」
どんどん体が重くなる。全身が痛い。骨から肉が腐り落ちていくような、そんな幻覚を抱いてしまうほどだった。
「いた、い……」
いつのまにか出ていた月を見上げて、ぼそりと呟く。しかし、そんな月を大きな雲がゆっくりと覆い隠した。
「――あーいたいた。危うく死なせるところだったよ」
突然聞こえたその声に、ぼんやりとしていた頭がはっきりする。木の影からぬるりと現れた彼の姿に、また体が強張っていくのがわかった。私の前にゆっくりと腰を下ろすと、頬に触れながら囁く。
「ごめんね、痛いでしょ? でも君が悪いんだよ」
そう言うと、何故か傑さんは顔を寄せ――そのまま私に口付けた。彼の舌が口の中に入ってくる。抵抗したくとも、もうそんな体力は残っていなかった。なんだか不思議な味がする。ようやく唇が離れた頃には、なぜか体が少しだけ楽になっている気がした。
「さっき君に飲ませたお茶、実験中の薬が入ってるんだよね。体に害はないよ。私がいればね。ふふ、私の唾液が解毒剤になってるんだって、面白いだろ?」
何がおかしいのか、彼はくすくすと楽しげに笑う。
「ま、これで、わかったよね。君はもう私から逃げられないんだ」
そう言うと、まだぐったりしている私を横抱きにした。
「家に帰るよ、お嬢」
意識が薄れていく中、そんな声が頭に響く。
「ああ、あと……次はないからね」
低い声でそう囁かれたのを最後に、私の意識は途切れてしまったのだった。



「見つけたよ」
公園の外にいる悟にそう声をかけると、悟は電話をかけていたようで私を見て軽く手を挙げた。
「あー、いたってよ、七海。もう戻ってきてオッケー」
車のドアを開け、気を失っている彼女を乗せる。その頭をなんとなしに撫でると、それを見て悟がスマホをしまいながら口を開いた。
「傑、そいつはお嬢じゃねえからな」
「……わかってるよ。似てるなと思っただけだ」
それだけ答えると、私は彼女に触れていた手をゆっくりと下ろしたのだった。




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