弟がおかしいかもしれない(弟夏)

夏の日の光、蝉の声。意識が冴えてきて、眠りから覚めたことを実感する。
「うーん……」
瞼はまだ上がらない。寝返りを打つ。その手が、何か温かいものに触れた。
「……うん?」
ゆっくりと目を開ける。最初に目に入ったのは、私の手を握ろうとする大きな手。次に、見慣れたパジャマの袖。このあたりで、ああまたかと頭が痛くなった。
「おはよ、姉さん」
「……おはよう、傑。なんでまた隣に寝てるの?」
傑は私の一個下、高校一年生の弟だ。
「ふふ、姉と寝るのに、理由なんかいるかな?」
「いるよ。姉弟で寝るの許されるのは、せいぜい小学生までだよ……」
ため息をつきながら、伸びをする。
「ほら、起きよ。ったく、夏にわざわざこんな狭いベッドで二人で寝てるとか、恋人くらいじゃん……」
「ふふ、そしたら今朝の姉さんと私は恋人同士かな」
「もうーバカなこと言ってないで! ほら、着替えるから出て!」
大きな体をばんばんと叩くと、ようやく傑が体を起こす。
「はいはい。ごはん準備して待ってるね。姉さん」
「はーい」
大きな弟を追い出して、ようやく部屋が静かになった。ふぅ、と一人息を吐く。パジャマを脱ぎながら、今日の時間割のことを考えた。ええっと、午後にプールの授業があった。水着忘れないように出しておこう。天気もいいし楽しみだなぁ。えいっ、とバッグの上にスクール水着を投げる。これで忘れないだろう。
「よいしょ」
髪をとかしていると、いい香りがしてきた。傑が何か美味しいごはんを作ってくれてるんだとわくわくする。
「姉さん、できるよ」
「はいはい、今行くよ」
傑は昔から甘えん坊だったけれど、最近また甘え気質が強くなってきた気がする。さすがにシスコンすぎないかと心配になるときもあるけれど、嫌われるよりはいいかなと思って流していた。
自分の部屋のドアを開ける。台所に向かっていると、傑の部屋のネームプレートが目に入った。
「……曲がってる」
『すぐるの部屋』のプレートを真っ直ぐに直してやる。これも小さい頃に一緒に作ったな。こんなの、いつまで使うんだろう。
「姉さん、冷めないうちにおいでよ」
台所から顔を覗かせた傑と目が合う。
「あ、ごめん、行くね」
プレートから手を離すと、そのままリビングに向かって駆けて行ったのだった。


「あ、これ美味しい!」
傑がつくってくれた卵焼きを食べながら呟く。
「姉さんが好きな味付けにしたからね。こっちも昨日の残りだから食べて。また夜食べなかっただろ?」
ロールキャベツのクリーム煮だ。そうだ、昨日宿題が忙しくて、ちゃんと夜ご飯を食べていなかった。代わりに、傑が寝る前にいつものスープを作ってくれたから、空腹に苦しまず快適に眠れたのだ。
大きく口を開ける。でも、それでも口に入りきらなくて、クリームがぼたぼたと垂れてしまった。
「傑、いつもおしゃれなご飯作るよね。ん……美味しい」
「そういうおしゃれなの、姉さんが喜ぶからね。ふふ、美味しくてよかった」
私をじっと見つめて、傑が嬉しそうに目を細める。あまりにもずっとそうしているので、耐えきれず声をかけた。
「……ねえ、傑も早く食べなよ。遅刻するよ」
「うん、わかってるよ」
ようやく、傑もロールキャベツを口に運ぶ。傑の大きい口だと問題なく食べられるんだなとぼんやり思った。食べるのに集中していると、また視線を感じたので顔を上げる。傑がまた私をじっと見つめながら、もぐもぐと口を動かしていた。
「? なに?」
「ううん、私が作ったご飯で、大好きな姉さんができてるんだと思って」
「すごいこと考えるね。というか、傑もさすがに姉離れしなよ。そうだ、彼女でも作ったら?」
ごちそうさま、と手を合わせて、食器を片付けながらそう言ってみる。
「……姉さんは、もちろん彼氏なんかいないよね?」
「え? 今はいないよ」
「今は、ってどういう意味?」
「うーん、実は今日呼び出しされてるんだよね。ラブレターもらってさ。あ、お皿洗うからちょうだい」
昨日、靴棚にラブレターが入っていた。文面から見ても多分悪戯じゃなさそうだったので、呼び出された場所に行ってみようかなと思っている。
「……へえ、そうなんだ」
ギギッと椅子が耳障りな音を立てて、傑が立ち上がった。
「姉さん、お皿ありがとう、私も学校行く支度してくるよ」
「うん! こちらこそ、いつもご飯ありがとうね」
部屋を出ていく傑を見送り、袖をまくる。そしていつも通りテレビのニュースを見ながら、食器を洗い始めたのだった。


「やばい、のんびりしてたらこんな時間! 今日日直なのに」
ニュース番組で好きな俳優が番宣で出ていたので、つい見すぎてしまった。ばたばたと自室に向かうと、なぜかそこから出てきた傑と出くわす。
「なんで私の部屋からでてくるのよ」
「ふふ、ごめんね、こっちで寝たときに姉さんの部屋に忘れ物したから」
「だからさ、傑は自分の部屋で寝るようにしなさいって」
また、深いため息をつく。
「あ、姉さん、日焼け止め持っていきなよ。今日プールあるんだろ?」
「あ、そうだ忘れてた」
ドレッサーの上にある日焼け止めを掴み、通学鞄に目をやる。あ、水着もう中に入れたんだっけ。急いでたからよかった。そう思って、そのままバッグを肩にかけ、足早に玄関に向かう。
「傑、日直だから先行くね! いってきます!」
玄関から一歩外に出る。今日は雲ひとつない快晴だった。



昼休み、午後のプールの授業に備えて、友達と日焼け止めを塗っていた。
「それで、今朝も傑が隣に寝ててさぁ」
そうぼやくと、忙しくそれを塗っていた友達の手が止まる。
「……あのさ、前から言おうかと思ってたけど。弟くんちょっとおかしくない?」
「え、なにが?」
「うーん、なんていうか……夜に布団に潜り込んでるってことでしょ? というか、それ夜中気づかなかったの?」
「うん、全然。最近すごく良く眠れるからなぁ」
「でも、あのサイズの男だよ? いくらなんでも気づくでしょ。薬でも盛られてんじゃない? はは」
「ちょっと、やめてよー!」
友達の言葉に、ぎょっとしてそちらを見る。
「ごめんごめん。まあでもあの顔なら別にいっか。ああ、私もイケメンの弟欲しかったなぁ」
冗談めかして笑う友達に釣られて、私もふふと頬を緩める。
「まあ……自慢の弟ですよ」
「ふふ、もはや惚気じゃん」
友達とそんなことを言い合いながらも、昼休みは過ぎて行き――午後のプールの授業がやってきた。着替えようとバッグを漁っていたものの、目当てのものが見つからず焦っていた。
「あれー、水着ない」
「え、忘れたの?」
スクール水着に足を通しながら、友達がたずねる。
「朝、準備したんだけどな。……あれ、でもバッグに入れたっけ」
「入ってないなら入れてないでしょ。ま、見学がんば! プールサイド暑いぞ!」
そんな友達の明るい声が、すっと通り抜けていく。
……そういえば水着、忘れないようにバッグの上に置いたよね。でも、朝にお皿を洗って部屋に戻ったときにはなかった。あれ、その前に傑が私の部屋にいなかった……?
「――ねえ、聞いてる?」
友達の声にはっとする。
「あーごめんごめん、ちょっと先生に水着忘れたって言ってくるね」
「いってら」
友達に送り出され、教室を後にしたのだった。


炎天下のプールサイド。屋根があるとは言っても、やはりそこは暑くて、汗が止まらなかった。
「私も入りたかったなぁ……」
プールではクラスの男子がふざけ合って、先生に怒られていた。やけに女子の方をチラチラと見ている男子もいる。こうやってみんなのことを冷静に見るのは、ちょっと新鮮だった。
『弟くん、ちょっとおかしくない?』
そんな中、さきほどの友達の言葉を思い出す。
傑は別におかしくない、と思う。ただ甘えん坊で、姉離れができていないところはある。
水着についても、もう一度考える。水着は、やっぱりたまたま私が見落として忘れただけだと思う。万が一……万が一傑が私の水着を何かしたんだとしても、悪戯して困らせたかった、とかそんなところだろう。というか、やっぱりそんなことはしないと思う。でも、傑に今日プールあるって話したっけ。なんで傑は知っていたんだろう。
『姉さん、また夜ご飯食べてないだろ? お腹空いてると眠れないよ。いつものスープ作ったから飲みなよ』
昨夜の傑の姿が脳裏に浮かんだけれど、ぎゅっと目を閉じてそれをかき消す。やめなよ、なんでこんなことを考えるの。薬を盛るなんて、傑がそんなことをするわけないじゃん。
そのときバシャンと音がして、頬に水がかかった。
「ちょっ、冷たい!」
思わず声を上げると、友達がプールの中からにこにことこちらを見ていた。
「ふふ、プールのお裾分け」
「もう、濡れちゃうじゃん! ふふ」
笑顔の裏で、ぐるぐるといろんな感情が渦巻く。こんなの、全部気のせいだと思う。気のせいであってほしい。でももし、少しでも事実があるのなら……姉として注意してあげないと。いくら姉のことが好きでも、こんな悪戯はよくないよって教えてあげないと。
そう思って、もらったラブレターのことを考える。呼び出しは今日の放課後、校舎裏。うん、まず彼氏を作ろう。そうしたら、流石に姉離れするかも。こんな動機で相手には悪いけど、少しずつ好きになればいい。そんなことを考えながら、うっすらと湿ったジャージをぎゅっと握りしめたのだった。


放課後の校舎裏。そこには、少し小柄で優しそうな男の人が立っていた。一つ上の三年生の先輩らしい。
「急に呼び出してごめん。俺、君に一目惚れして……ずっと好きだったんだ」
「あ、ありがとう、ございます……」
初めての告白。相手の緊張が伝わって、こちらまでどきどきしてしまった。
「だからその、突然だし、すぐに答えはもらえないと思うけど。友達からでいいです、俺と付き合ってくれませんか?」
思っていたよりも誠実な告白に、『はい』――そう答えようとしたときだった。
「危ない!」
上から切迫した声が聞こえたかと思うと、私目掛けて水が降ってくる。
「きゃっ!」
――冷たい。髪がびっしょりと濡れて、ワイシャツにもじわりと水が広がる。一体何が起こったのかわからず、少しの間身動きが取れなかった。
「だ、大丈夫?!」
目の前の先輩が心配してくれている。それに答えようと口を開いたとき、上から慌てる声が聞こえた。
「やばい、花瓶の水捨てたら下に人いた!」
「おい、バカだろお前!」
「だって、委員長がそうすればって……!」
そんな中、耳慣れた声が聞こえる。
「姉さん、今行くからそこにいて」
――ああ、傑の声だ。そうだ、ここは傑の教室の真下だったっけ。
「……すみません、大丈夫です。お返事、後で改めてさせてください」
先輩に、そう頭を下げる。
「それはいいけど……なんか羽織れるもの持ってくるね!」
「あ、大丈夫です、弟が来るみたいなので。すみません、せっかくこんなふうに想いを伝えてくれたのに、こんなことになって……」
「いや、君が謝ることじゃないよ」
……たしかに、そうかもしれない。なんで私が謝っているのだろう。なんで私が、こんな気持ちになっているのだろう。
「――姉さん、私のジャージ持ってきたよ」
声が聞こえると同時に、ふわりと傑の香りに包まれる。傑が自分のジャージを肩にかけてくれたのだ。
「姉さん、この人が例の人かな。……それじゃあ先輩、失礼しますね」
傑はいつもより低い声で彼にそう言うと、私の肩を抱いて連れて行く。私はただされるがまま、それについて行くしかなかった。


「大丈夫かい、姉さん。クラスの連中、いつもあそこから水捨ててるみたいでさ。やめろって言ってるんだけど。でもバケツの水とかじゃなくてよかったよ」
「……うん」
……委員長がそうしろって言った、って聞こえたよ。クラスの委員長って、傑だったよね。
「このままだと風邪ひくね。そういえば、私のバッグに姉さんの水着入ってたよ。ジャージに紛れ込んでたみたい。今日プールだったよね。ちゃんと見学にした?」
「……うん」
疑惑が確信に変わり、指先が小さく震えているのがわかる。
「そう、よかった。とりあえず濡れたの脱いで……水着着て、その上にこのジャージとかなら大丈夫かな。スカートはそんなに濡れてないしね。ちょっと嫌かもしれないけど、帰るだけだから我慢して」
そう言うと、女子トイレの前ですっと立ち止まる。
「――はい、これ、姉さんの水着」
傑のポケットから、今朝私が準備した水着がでてくる。
「……ありがとう」
それを受け取り、すぐに傑に背を向ける。
「ゆっくりでいいよ。……大丈夫、ここでずっと姉さんを待ってるからね」
逃がさないよ――そんなふうに聞こえてしまって、体温が下がっていくのを感じる。私はそれに答えることなく、黙ってトイレのドアを開けたのだった。


自宅の家のドアを開ける。傑との道中、ほとんど会話はなかった。いや、傑は話していた。私に告白してきた先輩のことを。
「――だからね、姉さんには合わないと思うよ」
「うん……そう、だね」
私が口にしたのは、それくらいだったと思う。

「暑いね。クーラーつけたよ。姉さん、濡れたの洗うから出して」
「うん。でも……自分で洗濯機にいれてくるね」
そう言って傑から離れようとすると、ぐいと肩を掴まれる。
「いや、私が出してくるよ。……あと、これもね」
そう言うと、傑は私が着ていたジャージのファスナーに手を伸ばした。思わずびくりと体が震える。そんな私に構わず、傑はゆっくりとそれを下ろした。まもなく、先ほど着替えたスクール水着が傑の前に晒されていく。
「……ああ、可愛いね、姉さん。こんなのクラスの猿たちに見せる必要ないよ」
その言葉に、どくんと心臓が大きな音を立てた。震える声で、傑にたずねる。
「……ねえ、傑が私の水着とったんでしょ? バッグの上に置いてたの」
「どうしたの、姉さん。言っただろ、私のジャージに紛れ込んでたんだ」
「ラブレターも見たんだよね……それであんな――」
「さっきから、何言ってるんだい? 姉さん」
私の言葉を遮り、傑がすっと目を細める。
「――全部、気のせいだよ」
傑の大きい手が、私の頬を撫でる。ああ、あんなに小さかったのに、傑はいつのまにかこんなに大きくなったんだ。……だからかな、今の傑に抗える気がしないのは。
「姉さん、シャワー浴びてきなよ。汗もかいたろうし、さっき濡れたから気持ち悪いだろ?」
傑の視線がまとわりつく。ああ、傑はいつからこんな目で私を見るようになったんだろう。
「……ううん、いいよ。傑こそ浴びてきなよ。汗かいたでしょ?」
「そう? じゃあ、そうしようかな」
そう言うと、ゆっくりと私から離れる。
「先に入ってくるから、ちょっと待っててね。……姉さん」
ねっとりとした視線に、またぞわりと体が震えるのがわかった。

――ああ、私はいったいどうすればいいのだろう。どうするのが正しいのだろう。傑がいなくなった部屋で、ひとりその場にしゃがみ込む。言いようのない重苦しい気持ちを抱えながら、私は冷たくなった手をぎゅっと握り締めたのだった。




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