伏黒甚爾の娘の話


※甚爾の娘、呪術師夢主と先生をしてる甚爾if



――絶体絶命の危機的状況。手足の感覚は随分と前に消えていた。目も霞んでほとんど見えない。おそらく折れているであろう肋のあたりがずきずきと痛んだ。でも目の前には変わらず、遥かに格上の呪詛師と呪霊がいる。それだけはわかっていた。
「……終わり、かな」
小さく弱音を吐き、短い人生を振り返る。私のあまりの弱さに「曲がりなりにも、あの禪院の血が流れてるのに」と侮蔑を含んだ目で見られたり、逆にこの血をやっかまれ、他の術師に嫌がらせを受けたりした。それでも呪術師なんてものをやってる理由は、ただひとつ――。
ぼろぼろになった私を見て、呪詛師がつまらなそうに吐き捨てる。
「弱すぎて話にならないな。まあ所詮呪力ゼロの伏黒甚爾の娘。こんなものか」
ああ、最後に父さんに会いたかったな。
「……もう飽きた。死んでいいぞ」
呪詛師の殺意がより一層濃くなる。父さん、私が死んだら泣いてくれるかな。……いや、微妙、泣かないかも。死を覚悟し、体の力を抜いた――その時だった。雷が落ちたような爆音があたりに響く。思わず身をすくめたものの、霞んだ目では状況が理解できない。恐る恐る一歩後ろに下がる。すると、すぐにその背中が、とんっと温かく大きな何かに当たった。
「ちっ、死んだような面しやがって。墓参りに来たんじゃねえぞ」
「父……さん?」
「あ? なんだ、見えてねえのかよ」
面倒くさそうにそう言うと、乱暴に抱え上げられる。そのまま肩に担がれたのがわかったものの、全身に走った激痛に悲鳴を上げて、思わずバンバンと父の体を叩いた。
「ちょ、父さん! この持ち方やめて! 肋いってるから痛い……いだっ! 今絶対追加で折れた……というか、もっと他の抱え方あるでしょ!」
「うるせえよ、耳元で騒ぐな。どうせ戻ったら治んだから、肋一本くらい増えても変わんねえだろ」
そう、これが父である。
「黙って寝てろ」
それでも、求めていたその声に安心してしまう。父には威勢よく言ったものの、すでに意識は遠のき始めていた。ゆっくりと目を閉じる。一緒に来ていた呪術師と話す父の声が聞こえた。
ああ、また会えてよかった。死ななくてよかった。つつと流れた一筋の涙は、父に気づかれぬまま地面へと落ちたのだった。


静かな暗闇から目を覚ます。眩しい光に目を細めながら、生きていることを徐々に実感する。
「ナマエ、起きたか」
その声に顔を向けると、兄の恵が私を見つめていた。
「お兄ちゃん……」
「大丈夫か? 硝子さんがあらかた治してくれたけど、まだ安静にしてろって」
付き添ってくれていたことに感謝してから、あたりを見回す。……やっぱり父さんはいない。布団の中でぎゅっと手を握る。
幼い頃から私たちに見向きもしなかった父。父は、娘の私を愛しているのか――そんな幼い頃の疑問の答えが知りたくて、意地になってこんなところまでついてきた。でも、弱いのに必死に頑張って、こうして死にかけても、父さんの本当の気持ちは見えてこないのだった。
「……バカだなぁ」
「何の話だ」
私のぼやきに、兄が私を見る。
「ううん、独り言。あ、お兄ちゃん、もう部屋戻っていいよ。ありがとうね」
もう一度お礼を言うと、兄が立ち上がる。しかし、部屋を出る時に私を振り返ると、気の進まない様子で呟いた。
「……お前が起きる少し前までは、親父いたぞ」
「そっか」
少しだけ口元が緩む。そんな私を見て、兄は呆れた様子でため息を吐いた。
「クソ親父に、あまり振り回されるなよ」
「別に、そんなことないよ」
兄には、私の気持ちがバレているらしい。
一人になると、また瞼が重くなっていく。眠気に委ねてゆっくりと目を閉じると、次第にそれに呑まれていったのだった。


――大きな手が、私の頭を撫でている。同時に、懐かしさに胸がいっぱいになる。ああ、きっとこれは夢だ。まだ幼い私が、その手を追って顔を上げる。父さんが、愛おしそうに目を細めながら私を見下ろしていた。うん、やっぱりこれは夢だ。あの父さんが、私にあんな顔をするわけがない。あんな目を、私に向けるはずがない。だって私は、一度だって父さんに愛されたことがないのだから。

「んん……」
夢が遠のき、意識が現実に引き戻される。ゆっくりと目を開けると、まず目に入ったのは競馬新聞だった。呆れ顔でそれを見ていると、視線に気づいた父さんがちらりとこちらを見る。
「なんだ、起きたなら言えよ」
「忙しそうだったから」
嫌味を込めてそう言うも、そんな些細なことに動じた様子はない。ため息をつきながらそんな父を見上げる。
「なんでここでそれ読んでるの」
「外だと、あいつらがうるせえから」
あっけらかんとしてそう答えると、父はなぜか私をじっと見下ろす。そして、すぐににまにまと嫌な笑みを浮かべた。その意味がわからず首を傾げる。
「……なに?」
「お前、エロい夢見てたな」
「は!?」
思わず大きな声が出る。
「顔赤くして、にやにやしてよ。男できたのか? ちゃんと避妊しろよ」
「っ!」
かあーっと顔が熱くなる。
「っ、バ、バカじゃないの! そんなわけないでしょ!」
ああもう、父さんのあんな夢なんて見たからだ。でも、私の気も知らないで、いつだってへらへらしている父を見ていると、次第に怒りがわいてきた。
「もう、父さんなんて知らない。大っ嫌い!」
寝返りを打ち、背中を向ける。本当に、私はなんでこんなことに囚われているのだろう。
「……」
ぐるぐると思い悩みながら心の中で文句を言っていると、ようやく父からの反応がないことに気づく。ゆっくりと振り返ると、なぜか目を見開いて私を凝視している父と目があった。これは、どういう感情なのだろう。
「……何してんだよ親父」
ドアの方から声が聞こえ、兄が呆れた様子でこちらにやってくる。
「あ? 俺は何もしてねえよ」
父さんは不満げにそう言うと、苛立った様子で兄を睨みつけた。そんな父に、兄は淡々と要件を伝える。
「五条先生が呼んでる。サボってるのバレてるぞ」
「ちっ、めんどくせぇな」
そう舌打ちすると、父さんは顎で私を指しながら立ち上がった。
「おい恵、こいつどうにかしとけ。二度と俺に嫌いなんて言えねえようしつけろ」
「しつけはあんたがやれよ。というか、俺を巻き込むな」
乱暴な音を立てて、ドアが閉まる。残された私たちは、いつものように深いため息をついたのだった。


その日の夜は曇り空だった。外の空気が吸いたくなって、こっそりと部屋を抜け出す。
――私は弱い。呪術師としての力はもちろん、父という呪いに囚われている心もそう。こうしてみんなに迷惑をかけるたび、痛いほどそれを実感して、自分で自分が憎くなった。
雲の切れ間から顔を覗かせた月を見上げて、大きく息を吸う。澄んだ空気で肺が満たされ、暗くなっていた気持ちが少しずつ消えていくのがわかった。けれど、複数の足音と呼びかけられた声に、すぐに闇の中に引き戻される。
「――お前、また負けたんだって? パパが来てくれてよかったじゃん」
私の生まれを妬み、よく絡んでくる術師たちだった。無視をして、その横を通り過ぎる。しかし、ぐいと腕を掴まれ、そのまま寮舎の影に引き摺り込まれてしまった。乱暴に壁に押し付けられ、完治していない体がずきずきと痛む。
「ちっ、弱いくせに何かと贔屓されやがって。さっさと死ねばよかったのに」
男たちが私を取り囲む。ああ、またいつものだ。半ば諦めた目で男を見上げたものの、それが癇に障ったらしい。
「おい、なんだその目」
再度肩を掴まれ、服が乱れる。胸元がはだけてしまったのを直そうと手を伸ばすも、その手もすぐに掴まれてしまった。
「はは、今すぐ高専から出ていきたくなるように、トラウマでも植え付けてやろうか。おい、こいつ押さえてろ」
両手を拘束され、身動きが取れなくなる。男の手が服の中に入ってきて、ぞわりとした心地とともに体温が下がったのを感じた。体が強張り、頭の中が真っ白になる。――嫌だ、誰か助けて。声をあげようと口を開く。しかし、また私のせいで迷惑がかかってしまう、これも全て私が弱いせいなのだと思うと、出そうとした声は喉の奥で消えてしまったのだった。
「っ!」
唇を噛み、これから起こるであろう悪夢に耐えようと目を閉じる。……大丈夫、これくらい我慢できる。そう思って、ぎゅっと手を握った時だった。
ドンッという大きな音と、パラパラと細かい何かが落ちる音。音の方を見ると、真っ黒な大きな人影がゆらりと揺れたのがわかった。その拳が外壁から離れたのを見て、ようやく先ほどの音が壁を殴った音だったのだと理解する。
「――おい、こいつらお前の男か?」
雲間から、月明かりがさす。その淡い光が、口元の傷を不気味に浮かび上がらせた。
「……ちが、う」
震える声で、なんとかそう答える。その瞬間、目にも止まらぬ早さで男たちを引き剥がすと、彼らが悲鳴をあげる間もなくそれらを殴りつけていった。しばらくそれを見ていたものの、父が止まらないのに気づき、慌てて声を上げる。
「と、父さん、もうやめて! 大丈夫だから!」
その声に、大きな拳がぴたりと止まる。そして足元に落ちていた男の胸ぐらを掴むと、その耳元に顔を寄せた。
「次俺の娘に触ってみろ。……今度は殺す」
男たちが悲鳴を上げ、ぼろぼろの体で逃げていく。そんな後ろ姿を見ながら、私は場違いにも、直前の父の言葉を心の中で繰り返していた。
俺の娘――たかがそんな言葉でも、呪われている私は、嬉しくて嬉しくてたまらないのだ。そうか、私はちゃんと父さんの娘なんだ。
しかし、すぐに頬に強い痛みが走り、現実に引き戻される。目の前でこちらを見下ろす父を見て、頬を打たれたのだと理解した。
「……なんで助け呼ばなかった」
冷たい声にはっとする。
「と……父さんとか恵に迷惑かけたくなかった。ただでさえ弱くて、いつも迷惑かけてるから」
これ以上お荷物になるのは嫌だった。しかしその答えに、父さんは苛立った顔でこちらを見る。
「お前がいつ迷惑かけた」
「え? 今日だって、死にかけてたところ助けにきてくれたじゃん」
「はっ、自惚れんじゃねえ。俺は別に助けに行ったんじゃねえよ。暇だから娘の授業参観行ったら、お前が勝手に死にかけてただけだ」
「くっ……」
思わず声が漏れる。それもそれでなんか……いいような悪いような。いや、よくはないか。
「……小さい頃、授業参観なんて来てくれなかったくせに」
呟くと、父さんの眉毛がぴくりと動く。
「あ?」
「なんでもないですー」
そう言って顔をそらす。何が授業参観だよ。本当に都合がいいんだから。
ふと、まだ指先が震えているのに気づく。手を握ってそれを隠したものの、今度は肩が震え始めてしまった。
「っ……」
その直後、背中をぐいと抱き寄せられる。突然のことに思わず目を見開いていると、上から声が落ちてきた。
「いいから泣けよ」
――今まで聞いたことがないような、優しくて包み込むような声。それが聞こえた瞬間目が熱くなって、いつのまにかぽろぽろと涙が溢れていることに気づいた。父の大きな手が、不器用に私の背中を撫でる。
――私は、父さんを誤解していたのかもしれない。昔から全然家に帰ってこないし、口は悪いし、父親らしいところは一度も見たことがない。でも背に感じる優しい手の感触に、これが父の愛し方なのかもしれないと思った。
「……父さん、ごめん」
なんとなく謝りたくなって呟く。
「許さねえ」
しかしすぐにそう言われて、思わず顔を上げた。
「いや……え? なにが?」
こちらを見下ろす目と目が合う。
「大っ嫌いって言ったの取り消せよ」
「ああ……言ったっけ」
「早く」
「でもあれは父さんが悪いじゃん」
「あ? もう一回殴るぞ」
「それはおかしいでしょ!」
俯いて、やれやれと息をつく。やっぱり父さんは父さんだ。もう一度顔を上げると、父の顔をちゃんと見た。こんな近くで父さんの顔を見るのは初めてかもしれない。
「父さんのこと、別に嫌いじゃないよ」
……普通に言ったつもりだった。でも、言い終えてから妙に恥ずかしくなり、顔がじわじわと熱くなるのを感じる。慌てて俯くも、すぐに上からからかうような笑い声が降ってきて、さらに顔が赤くなってしまった。
「お前、昼間俺の夢見てたな」
「!」
驚いてびくりと体を揺らすと、父さんが私の背中から手を離す。そして歩き出すと、私を振り返った。
「戻るぞ。ついでにその顔治してもらえ」
言われて気づく。なるほど、先ほど打たれたところが少し腫れていた。
「……いや、いい」
特に理由はない。でもなんとなく、これは治したくないと思った。父の後を追いかける。
「ついでに治せって言っても、別にあの人たちに怪我はさせられてないし。どうしたのって聞かれた時に、あの人たちのせいにして誤魔化せないから、父さんに殴られましたって説明になるよ?」
「それはやめろ。俺が怒られる」

いつのまにか、夜空を覆っていた雲は晴れていた。遮るものがなくなった月の明かりが、私たちをまっすぐに照らしていたのだった。




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