発展途上の国 3

 鈴も佐和に倣い、麦茶をのどに流し込み窺うように聞いてみる。
「佐和さんは、官能小説家になりたいの?」
「うーん……なりたい、とは思うけれど、思うだけじゃダメねーやっぱ。私って、いつもこうなの。頑張ろうって思って頑張っても、報われないのよね。まぁ、頑張ってるうちには入らないんだろうけど」
 ぽいっと、持っていた万年筆を、佐和は放り出した。
「佐和さんも、そう思うんだね」
「まぁね。少し話はずれるけど、昔ね……小学生の時よ。マラソン大会があって、私はどうしても一位になりたかった。だから、練習もすごく張り切って頑張って、いざ大会! ってなって、それはそれは頑張ったわよ。きつい坂道を何人も抜かして、ああ、これ言っておかないと。私、生まれつき脈拍数が多いの。そういう人は、マラソンには向いてないの。きついのよ。でも、私は一位の座が欲しくて、息を切らせてゴールしたのが……八位。絶望したわよ。あんなに頑張ったのに八位。あんなに苦しかったのに八位。世の中、なんなのよって思ったのが私の人生の、なんていうか……ひん曲がったところよね」
 佐和は、放り出した拾い上げ万年筆を手にとってくるくるっと、手の甲で回す。
「……私さ。佐和さんと、同じ経験、あるなー」
「え? 鈴ちゃんも頑張ったの?」
「んー……私の場合、頑張ったとかじゃ、ないんだけどね。あれ、高校の時にね、読書感想文で努力賞をもらったことがあるの」
「すごいじゃない」
「全然、すごくないの。その時、私は高校三年で、最優秀賞を取ったのは一年生……。体育館の壇上に上げられた時は、顔から火が出そうだった。だって、一年よりも下なんだよ? 謂わば、三位なんだよ? もう、恥ずかしくて恥ずかしくて。その時、思ったの。ああ、私は一位には絶対に、なれないんだって」
「……私たち、似てるわねぇ」
 くすっと、佐和が笑う。鈴も、釣られて笑ってしまう。
「まぁ、しょうがないわよね。こればっかりは、と、小学生の時に悟って以来これよ」
「私もね、同じこと思った。はは、仕方がない、仕方がない」
 佐和は、それにも笑い、しかしまた筆を持つ。
「でも、これは違うわよ。絶対に、官能小説家に、私はなる!」
 そのセリフに、鈴は笑ってしまった。
「そのセリフ、どこかの漫画で見たことある」
「あら? 私の決心を笑うの?」
「いえいえ、滅相もない」
 その後、暫く雑談した後、鈴は自宅へ帰りノートパソコンを取り出した。
 立ち上げて、ワードを開く。そうして、徐にキーを打ち始める。
 佐和の言葉が、忘れられなかった。
 一位になれない、という言葉が。そうなのだ。世の中、一位になれる人間なんて限られてて、神様に選ばれてて、特別で。
 悔しいけれど、それは自分や佐和ではない。
 暫く、無言でキーを打ち続けた鈴はその後、二日間パソコンと向き合い続け、随分長い間使っていなかったプリンタを持ち出し印刷のボタンを押す。
 出来上がった、文字の羅列。
 紙いっぱいに、物語が広がっている。
 読み直していると、母親にご飯の時間だと呼ばれ、鈴はその紙をバッグへと押し入れたのだった。
 その次の日。
 起きたのは昼過ぎで、昨日、随分集中してものを書いていた所為で疲れでも出たのだろう。だが、折角作った原稿だ。佐和に見て欲しい。
 遅すぎる朝ごはん兼昼ご飯を腹に収めた鈴は、携帯電話を持ち出し、LINEでメッセージを送る。
 『今から行ってもいいー?』
 なんとも、簡単な文章だ。
 意外にも、すぐに返事が返ってきた。『いいわよ』の、一文だけ。なんとも佐和らしい。
 そうして、顔を洗って着替えた鈴は、午後の光を浴びながら道を歩く。
 マンションに辿り着き、インターホンを押すと、今度は紫色の下着に身を包んだ佐和が扉を開けている。
「こんにちは」
「どうしたの? 三日前に、来たばかりよね?」
「というか、佐和さん……その服、というか格好、なんとかならないの?」
「雰囲気は大切よ! いわば、ユニフォームね! さ、今日はフレーバーのアイスティー淹れてあげる。座ってて」
「ありがと」
 そのまま、奥に足を運ぶと、丸まった原稿用紙が山になっていた。どうやら、この様子だと進んでいないらしい。
 そこで、鈴は持ってきた物をバッグから取り出した。
「はい、アプリコットアイスティー。美味しいわよ」
「いつも、ごめんね」
「なーにを今さら! 謝るなら、一番最初よ。私に何を読んでいるかなんて聞く人なんて、いないと思ってたから驚いたのよ。って、なにこの紙」
 佐和は、首を傾げながら鈴の出した紙を見た。
「……大変、恥ずかしいのですが……ちょっと、書いてみました」
「書いたって、小説?」
 ひょいっと、紙を持ち上げる佐和。それに、鈴は顔を赤くしたが「すごい、文章とかひどいと思うけど、シチュエーション的には使えると思うから……その」と、後は口の中に言葉が消えた。
「えー! 見ていいの? いいの?」
「ど、どうぞ……。官能小説って、見たことないからホント、なんちゃってなんだけど」
 佐和は、無言で読み進めている。それを、横目で見ながらアイスティーを口に含んだ。途端だった、座っていた足をばしんと叩かれたのだ。その後、また二発食らった鈴は痛みに呻く。
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