今日も、満月だった。 どうやらそれが大型シャドウ出現の条件らしい。 影時間の空に浮かぶ月は、相変わらず気味が悪い。タルタロスから見る満月は、一層不気味だった。世界を静観しているようにも見える。 救出作戦って映画みたいでカッコイイよな、なんて軽い調子で云っていた順平も流石に口を閉じた。何を考えているのか真田先輩もさっきから険しい顔をしたままだ。 ただ一人、タルタロスを長い時間たった一人で彷徨い、一番疲労しているはずの山岸だけが、しっかりとした口調でみんなを励ました。 怖くないはずがないのに、無理に笑う。 疲れていないはずがないのに、大丈夫だと答えた。 彼女は見た目に反して、とても強い人なのかもしれない。 「真田先輩の推理が正しければ、やっぱり早くエントランスに戻った方がいいです」 「ああ…そうだな」 「山岸もいるし、あんまりシャドウには会いたくないけどな…」 「わたしなら、平気ですから」 「うん」 本当は、何か上手い言葉を掛けたかった。彼女の強さに敬意を示したかった。だけど何と云えばいいのか分からず、ただ笑って見せた。(君はすごいよ。)そんな気持ちが伝わればいいな、なんて思う。(本当にすごいよ。) 「じゃあ、行こう」 声はすぐにタルタロスに吸い込まれるように消える。真っ先に動いたのは真田先輩で、その後を順平と山岸が追った。 (月が満ちる度に現れたあのこは、このことを知っていたのかな) 最後にもう一度、空に浮かぶ時間の支配者と対峙した。 |
人の背後に隠れるくらいなら云わなきゃいいのになあと思ったけれど、完全に腰の引けている順平よりはマシなのかもしれないなとか、それよりそもそも一番乗り気じゃなかった自分がどうして先頭に立たされてるんだろう、なんてぼんやり考えていた。 どうやったらこの局面を乗りきれるのかなんてことを考えるのは当に諦めた。岳羽が、考えがあるとは到底思えない挑発を止めようとしないこの状況を、変える手立てがあるとはとても思えない。 彼女は目に見えないものが何より怖いのだと云ったけれど、それ以上に、生きている人間の方がずっと恐ろしいのではないかと思う。 岳羽はきっと納得しないだろうけど、一発大人しく殴られることで相手がシラケて解放してくれないだろうか、なんて都合のいいことを考えていた。そんな時だった。 その人は、颯爽と表現するには若干語弊があったけれど、これ以上ない最高の場面で俺たちの前に現れた。 この時から俺たちの間でこっそりと『ヒーロー』と呼ばれていたのを、多分、彼は知らない。 (リンゴの人だ) (あ、ホントだ。あのリンゴ、美味しかったよね) (すげえ綺麗に剥けてたしなー) 「…おい、お前ら聞いてンのか」 「はい、聞いてます!」 「もうこんな無茶しません!」 「ほんっと、すんませんでした!」 「そ、そうか…」 (やっぱりヒーローはカッコイイ!) |
「なんか最近岳羽サン機嫌悪いねー。なんかあった?」 「…それ、俺に訊いてる?」 「おう」 「あー…うん、まあ…一応。でも友近が期待してるよーなことじゃないよ」 「あ、そなの?」 「うん、順平と勝負してるだけ」 「ふーん。で、何を?」 「ええと…あー…うん」 「何だよ、気になるじゃん」 「それは、ほら…岳羽本人に、訊いてください」 「えー何だよ、それー」 「それよりさ!これからはがくれ行かないか!」 (だって岳羽が…!岳羽の無言の圧力が…こわい!) |
そこは精神と物質の狭間というらしい。 説明を受けたけれど、正直、全く意味が分からなかった。精神と物質。言葉は知っているけれど、どうにも想像ができない。人が何かを理解するためには、まず既に理解している概念が土台に必要らしい。 物質とはつまり何で、精神とはどういうものなのか。それすら上手く説明できない状態で、その先を理解しようなど到底無理な話なのかもしれない。 そこは全てが青い。 そこは深い海の底のようで、日の沈んだ群青の空にも似ている。まるでエレベーターのような一室は、上っているのか或いは下がっているのか、そのどちらでもないのか、何一つ分からない。現実なのか夢であるのか、その判断さえつかない。 「随分と、お早かったですね」 いつも手に持っている本に視線を落としたまま、彼女は云った。 この部屋では囁きのような微かな声さえも確実に拾い、反響させる。 「運が良かったから」 いつもの椅子に座り、持ってきたランタンを3つ、テーブルの上に並べた。視線だけをテーブルに向けた彼女は、無言でそれらを眺める。やがて「確かに」と口端を持ち上げて微笑んだ。 「あなたが私の依頼を受けたのが、一昨日…でしたでしょうか」 「多分」 「思っていたよりもお早いです」 「そうかな」 「ええ」 そして彼女は嬉しそうな笑みを浮かべたまま、本の間から白い封筒を取り出す。 「報酬です」 それは全てが青い世界の中ではひどく異様な存在だった。 「…ランタンなんかどうするの?」 封筒を受け取りながら彼女の顔を伺い見る。彼女の表情は、まるで完璧な仮面を貼り付けているように隙がない。 「さあ?赤い炎でも灯してみましょうか」 悪戯っぽく笑った彼女はランタンのひとつを手に取り、乱暴に振る。すると手品のようにぽつん火が灯った。ゆらりと炎が揺れて彼女の白い顔を照らす。 「理由なんてございません。ただ、存在するだけです」 炎を見つめる彼女の眸はまるで深海のように、或いは黄昏時の空の果てのように、深く沈んでいた。 |
「世の中って、ホント不公平だよな…」 「順平、いい加減ウザイから」 「だってアイツ全然勉強してねーだろ」 「アンタだってしてないじゃない」 「いーや、アイツよりはしてるって。絶対」 「…まあ、頭の違いってやつ…なんじゃないの」 (てかアイツ、本当に一週間映画館に通ってたのかよ。いくらなんでも学年1位なんておかしくね?) (…そうだよね。やっぱり嘘だったのかも…) 「人を疑う前に、自分で努力をしたらどうだ」 「うッ…真田さん、それ言ったらお仕舞いですよ…」 「……はあ」 |