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(8)酒なら甘くマイルドなチェリーワイン-2


 はたして、どれくらいそのままでいただろうか。すぴ、すぴ、と後ろのイーブイの可愛い寝息が聞こえてくる。目の前の人も気持ちよさそうに寝入っている。
 うだうだと迷っていた気持ちがようやっと固まって、片手に囚われている手の救出をまずは試みた。一本一本、寝ている人の刺激にならないよう注意しながら指を剥がしていく。剥がれなかったら諦めようと思っていたが、幸か不幸か抜け出すことができてしまった。今や後頭部に当てられるだけの手からも、すんなりと。
 そっと体を起こす。ダンデさんの体格に合わせたようなベッドがギシッと軽い音をたてたが、彼は目を覚まさない。疲れでも酒のせいでも、今はどちらでもありがたかった。見れば彼は靴を履いたままだったけれど、ここで余計な刺激を与えてはならないと放置することにした。シーツが汚れたとしても、悪いがそれは私のせいではない。

 どこから始めようと悩み、一先ず本当にチェリーワインがあるのかどうかから確認しようと、足音を殺して明かりが点いたままのリビングへ向かった。まるで盗人だなと自嘲の笑みが音なく落ちたが、こんな都合がいい千載一遇のチャンスは今後二度とないだろうと、即座に余計な感情は閉じ込める。
 夏場だし、と考え冷蔵庫の野菜室を手始めに開けて見れば、あっさりと発見してしまった。記憶にあるラベルだった。値段はそんなにしないものだが、マイルドで飲みやすくて、酒が飲めるようになった頃は何本かリピートした。甘めの酒が好きだから、チェリーワインは今もたまに飲む。
 野菜室以外も覗いたが、あまり食材は入っていない。その代わりというか、甘い物が多かった。私もよく食べるチョコレートやフルーツゼリーが。

 ついでなのでキッチンカウンターも眺める。綺麗だったが、つまりはあまり使っていないということだろう。何せ、収納スペースにしまってある洗剤用具が限られている。生活感の薄いこの家のことだ、不器用みたいだし料理スキルが高いようには思えない。
 別の収納スペースにはこれまた見たことがある栄養補助食品が詰め込まれていた。相変わらず食に頓着していないらしい。だけどとりあえず、ここにはもう用はなさそうだ。
 ごめんなさいね、と思いつつ一部屋ずつ見ていく。一人暮らしのようだし部屋の数は多くないが広く、ポケモン達の玩具があったり、筋トレの機材があったり中身は様々。

 となると、と寝室にまたやって来た。そっとダンデさんの寝顔を覗き込むと健やかな寝息を立てている。寝返りを打ったせいか長い髪が顔にかかっていて、試すつもりではないがドキドキしながら払ってやっても彼は目を覚まさないので、ホッと安堵する。

『長い髪。切らないの?』
『すっかり切りたいと思わなくなったな』
『どうして?』
『君にこうして梳いてもらうのが好きだから』

 どこからか幻聴がした。幻覚も同じく。妄想が逞しいな。
 夜になって夏だけど気温が大分落ち着いているにしても悴むような指先に気が付いて揉み込む。なかなかに目覚めないと確認できたのだから要らない時間を作らず、早く、続きを。
 ベッドから音を立てないよう注意をしながら離れて暗い室内をぐるりと見渡す。電気など点けられるべくもないので、僅かに開けたままいるドアからリビングより入る光だけが唯一の頼りだった。
 大きな本棚にクローゼット。物書きが楽にできそうなテーブル。壁にかかるたくさんのキャップ。見ればベッド横のサイドテーブルにもダンベルが置いてあって、こんな所にもって少し笑った。

 そして、一際目に付くボックス。

「……」

 そろりと近寄って外から確認をする。二つ並ぶそれは一見何の変哲もないロッカー型のハイボックスだったが、一目見た時より胸がざわついて仕方なかった。女の感というのはどうやら私にもあったらしい。
 しゃがんで扉を開けて中を見ようと手を掛けたが、つっかえたように開くことはなかった。鍵がかけられているらしく、一人暮らしなくせにとますます怪しいと思えてくる。今度は鍵の捜索か。
 しかし案外呆気なくそれは見つかった。簡単なことだ。壁掛けのキーフックにそれらしいのを発見したのだ。明らかコンパクトサイズなそれは、どう考えても一般的な部屋の鍵よりも小さい。
 恐る恐る二つの鍵を手にし、もう一度ボックスの前にしゃがみこむ。左のボックスから適当に選んだ鍵を差し込むと、すんなりと回った。これで正解なようだ。

 間違っていたなら、それでいい。勘違いだったならば私は他人の家を許可なく物色した不届き者になってしまうが、その方がマシな気さえする。被害妄想だったなら、今日起こったこと全部、水に流そう。私はとっくに分水嶺を迎えたのだから。
 扉の取っ手に指をかけ、けれど指が震えていたから落ち着くためにも、そこでふうー……と息を薄く吐く。腹を決めたつもりでも心臓が痛いくらいに騒がしかったし体全体が痺れるように緊張していたが、もうここまでしてしまったのだ。
 多分このポイントがまだ引き返せるタイミングだったろうけれど、深呼吸し、その扉をゆっくりと開いた。

 そして知るのだ。それが例えようもなく、パンドラの箱であったことを。

「……あ、」

 上下二段に分かれた中は、多くの物が詰まっていた。
 分厚いハードカバーの新書が数冊。文庫本も数冊。見覚えのある水色の箱。水色に花柄のハンカチ。イーブイのキーホルダーが付いた鍵。よれた数枚のレシート。印字される文字を読もうとしたが、ここにきてなんと勇気がでなかった。
 逸っているのか止まりそうなのかもうわからない心臓を抱えたまま隣のボックスも開けた。そちらは、服や装飾品が多かった。それは柄が少ないシンプルなワンピースだったり、トップが水色のストーンのネックレスだったり、どこからどう見ても女物である。

 煙の中にいるように息が困難になって喉元を押さえた。さっきから幻聴ばかり襲ってきて、頭の中で反響している。瞼の裏の知らない筈の光景も、また。目眩が起こりそうで、酷く気持ち悪い。
 まだ。まだだ。まだそうとは断定できない。
 その時、どこからか短いメロディが聴こえて全身が跳ねた。耳に馴染むその音は私も使うメッセージアプリの通知音である。最初は自分のスマホかと思ったが、鞄にしまったままだしその鞄もリビングに置いたまま。
 音はすぐ近くで響いた。ならば、と今度ははっきりと逸る鼓動を窘めながら振り向くと、背を向けるダンデさんのジーンズの尻ポケットが膨らんでいたので、恐らくあれだと推察できた。
 スマホ。ふと、思い出したことがあった。私が分水嶺に立たされる、そもそものきっかけとなった出来事。

 ダンデさんは未だに起きない。いつの間にかイーブイを抱いて眠っている。イーブイ、そんな、居心地良さように眠って。
 今までのイーブイの態度も、全部がポイントとなり得る可能性だったのだろう。今になってようやく気付くだなんて。

 ごくりと唾を呑み込んで、膝でベッドににじり寄り、ポケットに恐る恐る手を伸ばす。本物の盗人になった気分だった。
 起きたら止めよう。でも今起きられたら開きっ放しのボックスでバレてしまうだろうが、思考回路が渋滞していたので都合よく見落とした。何度も言い訳をしながら微かに見えているスマホに指を伸ばす。しかし、あっさりとスマホを手中にしてしまった。ドキドキ、ドキドキ。うるさい心臓は一向に休まらない。
 ダンデさんのスマホを持つ手があからさまに震えていた。そのせいで一度落としかけて血の気が引いたが、どうにか落とさずに済んだ。
 じっと暗いままの画面を見つめる。人のスマホを勝手に見るなんて、だなんてもうこの期に及んで善人のように言ってはいられない。もう、後には引けない。
 ぎゅっと目を瞑って息を全部吐いてから再び目を強く開ける。スマホの電源ボタンを思い切って押す。そうすれば暗い室内に目に痛い程の光が生まれ、ロック画面を瞬時に映し出した。

 そして。

「っ、ぁ」

 結局大袈裟なまでに手が震えてしまうと、そのままスマホを床に落としてしまった。ごとんと鈍い音がしたが、それを気にはできない。床に落ちてもなお画面を光らせているそれに、全ての神経が集中したままで。

「なんで……なんでっ、なんでなんでなんで」

 驚愕し悄然とした後、譫言のように繰り返す“なんで”は、色々な意味を孕んでいた。
 なんで隠した。なんで黙っていた。なんで嘘を吐いた。なんで引き留めてくれなかった。

 ロック画面の画像には見覚えがあった。私はこれを前に見せられたことがある。
 キバナさんが私に証拠として突き出した、キバナさんの言葉を真実と証明してみせた、写真。
 私の右隣に立つキバナさん。背景は古書店の近く。私も彼も、にこにこと笑っている。あの日これを見せつけられてしまって、彼の言うことを信じずにはいられなかった。
 だけど、あの時瞼に焼き付いてしまったそれと床の上で未だに光っている画面には決定的な違いがあった。
 私とその右隣にキバナさんが写っていることは、記憶と変わりない。
 だけど若干サイズが違うことと、左隣には、ダンデさんがいる。ダンデさんもまた、にっかりと笑みを浮かべて同じ枠の中に存在しているのだ。

 この写真はツーショットじゃない。元々、三人で撮ったんだ。

『写真撮っていい?』
『えっ。SNSにはあげないですか?』
『あげないあげない』
『俺も混ぜてくれ!』
『えぇー……。まぁ、いっか』

 ――本当は、二人で撮りたかったんだと思う。今ならわかる。まだ三人が綺麗に並列だった時。だけどダンデさんが割って入ってきて、あの人は渋々と承諾していた。

「……っう、あっ、」

 一瞬で体も、目の奥も、炎にくべられているように熱くてたまらなくなった。頭が痛い。ずきずきなんてレベルではない。金槌でひたすらに殴られるように痛くて防御にもならないのに頭を抱えてうずくまった。線路も、また傷口が開きそうに痛い。

「ひっ、あっ、うううっ、ううっ……!あっ……ぐうう……ッ!」

 うずくまって子供みたいに泣き喚いた。自分のことしか気にできなくなっている。頭がとにかく痛くて、まだ幻聴と幻覚と呼んでおきたいものがあまりに酷くて、到底大人しくなどしていられない。
 なんで、みんなして。

「アリシア!!」

 突然大声で名前を叫ばれ、すぐにダンデさんが駆け寄ってきたが、わかりやすく狼狽している。肩や背中を擦り「どうした」「何があった」と慌てながらも気に掛けてくれるが、酔ってたんじゃないのとか、いつ目が覚めたんだろうとか、考える余裕はどう足掻いてももう私にはない。
 うずくまっているせいで見られないが、遅かれ早かれ扉が開いているボックスにも、画面が暗くはなったが自分のスマホが床に落ちていることも気付いてしまうだろう。

「まさか……」

 思った矢先に呟かれたので、やはり気付いたのだろう。背中に置かれた手が、一切の動きを止めた。
 もう、否が応でも、現実を認めなければならなかった。

「うそつき」

 顔は上げられないから床に向けたまま、痛みで視界が滲む中搾り出した声は重苦しく、だけど情けなく震えていた。

「うそつき」
「っアリシア、俺は」

 酔っていた形跡など残さない風体にさすがにそんなもの吹っ飛んだのだろうとは思ったが、吹っ飛ぶくらいの事態なのだろう、彼にとっても。

「うそつき、うそつき……うそつきっ」

 呪いでも呼び込みそうな自分の口が止まることを忘れた。何度も何度も、同じ言葉を繰り返す。

 嘘つき。みんなみんなみんな、嘘つき。


 私の恋人はキバナさんじゃない。ダンデさんだった。

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