- ナノ -


(9)君の言葉も君の好きな物も、全部覚えている(前)-1


 ナックルシティの資料館へ古書寄贈の為に直接赴いた日。無事に用事を終えてさあこれからどうしようかなと悩んでいる時だった、それは。
 直帰していいよって言われているからカフェにでも行こうか、でもさっき職員の人に紅茶とお菓子を振る舞ってもらったからそこまでお腹は空いていないし、買い物でもしようか。ハンカチを新調したいと丁度考えていたところだし。いやでも図書館に最近寄ってないからそっちにしようか。等々、道の端によってスマホをいじり周囲の施設を検索しながらどうしようかと考えていると、目の前を物凄い高速で何かが一瞬で通り過ぎていった。
 勢いのあったお陰で髪の毛先がふわっと微かに浮く程で、反射で顔を上げて何かが過ぎ去った方向を見やると、真っ先に目に飛び込んだのは風圧で浮かびそよぐ深い赤で。

 あれ、チャンピオンだ。

 ユニフォームにスポンサーマークを所狭しと貼り付けた王者のマントを翻す無敵のチャンピオンがそこには立っており、何やらキョロキョロと辺りへ忙しなく顔をやっていた。ガラル一、二を争う有名人をこんなタイミングで拝めるなんてラッキー、と頭が俗物的になるが、決して声を掛けようなどとは思わなかった。俗物的とは言ったが野次馬には抵抗がある方で、気軽に著名な人間においそれと話しかけられる度胸など私にはない。
 でもせっかくだしこっそりと有名人を目に焼き付けておくくらいはいいよね、と相手が背中を向けてどこかへ歩き出そうとしているのをいいことにじっと横顔や後姿を見つめ、そして、あれ?と気付く。
 勢いよく右に曲がったチャンピオンが、そう間を開けずに元の場所へ戻ってきた。今度はそのまま反対へ曲がり、またもやあまり時間もかからない内に同じ位置へ戻ってくる。何故だか知らないがそれを数回繰り返していた。最終的にその場で立ち止まった彼は、腕を組んで空を見上げた後、こてんと首を傾げた。
 なんだ、何をしてるのだチャンピオン。遊んでいるのか?などと絶対に外れているだろう予測をした頭だが、次いでとあることを思い出してくれる。そういえば、チャンピオンって頻繁に迷子になってしまうある意味とんでもない人物であるとか。友達が以前見せてくれたチャンピオンのリーグカードの裏にそんな類の話が記載されてあったような。
 成程。あれが噂の迷子現場なのか。
 確かそういう場合は大抵リザードンが助けてくれるらしいから、その内リザードンを出して自分からヘルプを求めるだろうと「私は関係ない」スタイルを貫いてスマホに目を戻そうとして。

 目を、戻そうとして。

「……」

 すすっ……と目の先は見えない糸に手繰り寄せられているかのようにうろちょろうろちょろとする人へ動いて行く。
 さっきから視界の端がチャンピオンのせいでうるさいのだ。それはもう情報探索が全く進まない程度には気が散って仕方がない。
 しょうがないな。残念なことにこの場所は閑静な場所で通行人もいない。ここは私が折れてみせよう。
 わざとらしい嘆息をし、スマホを鞄にしまって、未だに困り顔で立ち尽くしているチャンピオンへと歩み寄る。後ろから声を掛けて驚かせるのは悪いから横に回ってから口を開く。身長差のせいで下から覗きこむような形になってしまったのはご愛敬ということで。

「お兄さん、何かお困りですか?」

 声を掛けた瞬間、こちらに向けた陽の光を浴びて光り輝く金色の瞳をまん丸にして、結局驚かせてしまった彼が、突然現れた私を真っ直ぐに見つめた。

 ――そうして私とダンデさんは、出会ったのだ。


  ◇◇


 予想が的中した通り深刻な迷子になっていた我らのチャンピオンは、私が親切で声を掛けたことをすぐに理解してくれて、素直にタクシー乗り場に行きたくて……、と申告してくれた。

「ちょっと待ってくださいね、私もここの住人じゃないから調べますので……あ、わかった、こっちです」
「すまない、助かるよ」
「いえいえ」

 ヒットした位置と目の前に広がる道を見比べながら、一歩二歩、と進み出す私の隣をチャンピオンがとことこついてくる。しかし途中何故か隣から姿を忽然と消して全く別の道を一人で行こうとする場面もあったから、度々呼び止めはしたもののなんだかそれすらも面倒になってきて、打開策として彼のマントの端を掴むことにした。いくらなんでもいい大人にする対応ではない気もするが、段々とチャンピオン相手だとそれも仕方のないことのように思えてくるから不思議だ。ガラルの英雄には悪いが呆れとも言えるかもしれない。

「いいですかお願いだから大人しくついてきてくださいね」
「すまないな、よくこうして案内してくれる人を困らせるんだ」
「素晴らしい才能ですねほんと」

 有名人に対する萎縮も興奮もとっくに吹き飛んで軽口がぽんぽん叩けるようになってきた頃。汗を掻くほど苦労しつつようやく目的のアーマーガアタクシー乗り場が見えてきて、やっと辿り着けたことに安心感と解放感を覚えてしまうと、はあ、とつい軽くはない溜息を吐いてしまった。
 リザードンで飛んでは?と道中進言してみたのだが、どうやら既に一戦終えた後だったらしく、回復はしてあるが休ませてやりたかったとのことだ。代わりに疲労させられたのは私だったが、まぁ何だかんだで目的は果たせたので良しとしよう。

「それじゃあ、私はこれで。あ、これからも応援してます」
「えっ、あ、待ってくれ!」
「はい?」

 目的地には無事に着いたのだ。これにてお役御免と頭を下げてその場を去ろうとすると、チャンピオンが突然慌てたように引き留めてきたではないか。呼び止められてしまっては、と踵を返そうとしていた足をその場に留めて私よりも上にある彼の顔を見やると、何やら随分と言いにくそうな様子で口をもごもごとしていた。
 大半がメディアで見知ったチャンピオンって、こう、いついかなる時も自信に満ち満ちた、何事にも物怖じしない人間というイメージがあったのだが、今目の前で広がる光景はそれとはかけ離れているように見えてしまって、予期せず面食らってしまった。
 案外、普通の人なんだ。
 浮世離れした雰囲気を纏っているような印象を抱いていたのに、結局蓋を開けて見ればそこにいるのは同じ星に生きる人間で、これまでよっぽど偏見に塗れた目でチャンピオンを見ていたのだとこの時になってようやく気が付いたのだった。

「お礼、を」
「お礼?」
「ああ、お礼をしたいんだ」
「お礼」

 思いもよらない発言に二度鸚鵡返ししてしまったが、どこか落ち着かなさそうにそわそわとした様子の浮足立つチャンピオンに、おや、とまた印象がころりと変わる音が頭の中で鳴る。

「いいのに別に。気にしないでください」
「そういうわけには!……その、凄く助かったんだ。お礼をしないと俺の気が済まない。だからっ」
「え、食い気味」

 元より大きな瞳を更に大きくしてずずい、と整った顔が迫ってくる。髭のせいもあるだろうが、圧が凄い。

「……じゃあ、一個だけお願い聞いてもらっていいですか?」
「……!もちろんだ!」

 途端にパッと顔色を明るくして人懐っこそうに笑うこの人は、そんな簡単に初対面の女のお願いなど聞き入れてしまっていいのだろうかと張本人たる自身も心配になるが、出会う直前まで抱いていた印象を完全に変えてきたその表情に、私もまたころりと心が転がってしまったもので。
 こう、人懐っこい顔を、するものなんだな。

「で?俺は何をすればいいんだ?」
「何をするというか、ちょっと行きたい場所に付き合っていただければ」
「行きたい場所?」
「はい。キルクスにあるお店で、シフォンケーキが評判らしくて。付き添っていただければそれで結構ですので」

 飲食店には一人で入れるタイプなので特に誰かを誘う理由はなかったが、お礼という名目に乗っかり、せっかくなので今度行こうと立てていた予定にチャンピオンを組み込むことにした。

「あ、でも恋人とかいました?だったら別のでも」
「いや大丈夫だ!君がそれでいいならそれに付き合うよ」

 あ、いないんだ恋人。とはもちろん口にはしなかったが、かの有名なチャンピオンのプライベートな情報を図らずとも入手してしまい、少しいけない気持ちになってしまう。きっと恋愛沙汰など格好のゴシップネタだろうし存在を隠している可能性も考慮したのだが、この一つも躊躇ないウェルカムな様子ならば本当にいないのだろう。
 忙しい彼の都合に合わせることをこちらより提案して、連絡先を交換してもおかしな感覚がすぐには抜けなかった。リーグ関係者でもないただの一般人たる私のスマホの中に今、滞りなくチャンピオンの連絡先が入ってしまった。きゅっと知らずスマホを握る締め、とある使命感に一人で燃える。だって本当に、初対面の女相手に身軽なものだから。
 絶対情報漏洩しないよう気を付けねば。


  ◇◇


 後日、忙しい人となんとか連絡を取り合って日にちを決めて、キルクスタウンで待ち合わせをした日。
 チャンピオン改めダンデさんは約束の時間に現れなかった。もしやすっぽかしか?と短絡的にも勘ぐったが、よくよく考えてみればとても単純な話、恐らくあの日のように迷子なのであろう。発端が迷子の救済から始まったことなのだから、時間を守れない程度に迷子になっている可能性はゼロではない。
 メッセージを送っても反応なし。お礼の題目で今日こうして待ち合わせなどしているのだから、無視できる状況にはいない。
 どうしたものかとスマホと長いこと睨めっこしていると、その内どこからか慌ただしい足音がしたので「なんだ?」と顔を何の気なしに上げてみると、なんとダンデさんがこちらに向かって走って来るではないか。
 一時間以上遅刻したダンデさんは私服で、これには心底安心した。もしもあのナックルシティのようにユニフォームだったらどうしようなどとくだらない心配をしていたのだが杞憂であったようだ。

「はっ……はぁ、待たせて申し訳ない」
「お疲れ様です。迷子で?」
「ああ……知らない内にスパイクタウンの方へと行っていた……だけどこれでも普段より断然早い到着なんだぜ!」
「そうですか」

 胸を張ることだろうかと思わなくはなかったが、本人が嬉しそうにしているからまぁいいだろうと笑ってあげた。迷子癖は既に体感したが、実際どの程度酷いものなのかまでは存知ないので話を広げるつもりもない。
 さて移動だ、と歩こうとして、その場に踏み止まる。なにせ前にも同じことした。その時一体どんな痛い目を見たことか。

「……あの、移動するので、良ければ私の服の裾でも握っていてください」
「え、女性の服に簡単に触れるなんて」
「迷子防止です」
「……君の言葉を呑もう。だけど、その恰好のどこを握れば……」
「あ、そうだった。じゃあ、はい」

 さすがに膝丈のそこを握れとは言えないので、春先で日中も温かくなってきたので薄手のワンピースの上に重ねるカーディガンの袖の中に手を隠して、ぶらりと垂れている腕の先をダンデさんに向けた。すると暫くじっと見つめて逡巡してみせ、恐る恐る、いかにも申し訳なさそうに、彼の手が伸びてくる。もしや女慣れしていないな?と下世話な勘ぐりがまた働くが、そこではたと気付く。
 私こそ、二度目ましての男の人にしてもいい態度ではないな、これ。
 学生時代は恋愛のままごとのようなことばかりしていたのでカウントはせず、恋愛事の経験がほとんどない私には異性との距離の取り方がいまいちわかっていない節があると、以前友人に怒られたことがある。要は気がない相手に思わせぶりな態度を取るな、ということだ。そこそこ羞恥の薄い感覚を持っているばかりについそうなってしまい、そんだけ本から知識を得ているのだからもう少し頭も気も回せと窘められてしまった痛い経験。
 やっぱり違う方法を考えましょう、いやそもそも迷子にならないよう自分で頑張ってくれ。などと方向転換した頭のままに促しかけて、開けかけた唇が見事なまでに再び貼りつく。
 はしっ、と遠慮がちに握られた服の袖。ほんのり薄く赤くなっている、恥ずかしそうで所在なさげな顔。

「さあ、案内してくれ」

 態度とは裏腹に、口だけ強気なダンデさん。

「……離しちゃダメですよ」

 本当に、メディアから得ていた印象が次々と変化していく人だ。



 スマホの地図で道を確認しながら、図体の大きな子供を引いているような気持ちで店を目指し、ようやく店に到着できた。そのお陰でようやく袖を解放してもらったが、少し、いや結構だるんだるんになってしまったそこには、言い出しっぺは私なのだし、しょうがない目を瞑ってあげようじゃないか。
 ダンデさんが遅刻したせいですっかりとピークは過ぎたようで、店内は客もまばらであった。ネットで見た内装の通りシックなデザインで、カウンターのマホイップが彩を与えてくれる、落ち着いた雰囲気の店だ。
 窓際の席に二人で向かい合って座り、メニューをシェアしてさっそくシフォンケーキを頼む。飲み物で迷って、注文を取りにきてくれた店主におススメを尋ねてみるとブレンドティーとの答えがあったので、それも二人分。付き添いだけを頼んだつもりだったのだが、ダンデさんもシフォンケーキを食べたいと申し出てきたので紅茶含めきっちり全部二人分だ。
 視界の端に映った老客の足元で寝転ぶガーディを認めると、すぐさま思い浮かんだのはあの子。
 そうだ、イーブイ。イーブイも出してあげようかな。どうやら小さな体のポケモンならOKなようで、イーブイならその枠から外れない体格。甘い味が好きな子だから尻尾を振り回して喜ぶだろう。
 でも、今日は目の前にダンデさんがいる。人見知りで臆病なイーブイにこの大柄で威圧感のある大人の男と顔を合わさせるのは酷かもしれない。そう思い、今日は大人しくしていてね、イーブイの分は後でテイクアウトしてあげるからね、とボールの中のイーブイに念じた。イーブイの為だけに買うのは他の子達にも申し訳ないので、テイクアウトは現在手持ちにしている三匹分だ。

 間もなく運ばれてきたシフォンケーキは、見るからに上品そうだった。切り分けて口に運べばふわりと茶葉の風味が広がり、程よい甘さで、クリームも全然くどくない。胃にずしんとくるような甘さは苦手なのでこれは大当たりだった。少し興奮してそのままそっくり感想をダンデさんに話すと、彼も気に入ったのか「うまいなこれ!」と喜んでいたのだが、ほんの数口でシフォンケーキが消えてしまったことには愕然とした。しかも見間違いでなければ半ば飲んでいたようにも見える。
 もう少し味わってもいいのでは、と心の中で思うも本人は満足そうなのでまぁいいか……と紅茶と共に飲み込んでおいた。

 ダンデさんは思っていたよりも口数の少ない人だった。メディアを通した彼は大抵口が達者で、バトル中などもポケモンへ指示一択、という寡黙スタイルでもなかったのだが、実際こうして相対してみるとそこまでべらべらと喋る人ではないようで。
 ただ、ポケモンの話になると急に水を得たように饒舌になるものだからちょっと驚いた。本当に活き活きと話をするのだ。今はバトルをすっかりとしなくなったが、これでも底辺だがトレーナーの端くれなのでダンデさんのマシンガンのような話に乗っかると、瞬時に金色の瞳を朝焼けよりも眩しく輝かせて殊更楽しそうに話を続けるものだから。
 そうかこの人、チャンピオンなんて御大層な称号を戴いているけれど、そもそもがただポケモンが好きな人だったんだと、妙にしっくりときてしまって。
 またもや印象を変えられてしまったが、なんだか悪い気分でもなかった。その後の会話もずっと盛り上がっているわけでもないのに、つまらなくはない。二人の空間にあるのは店内の雰囲気と歩調合わさるように穏やかで、意図して会話を続けようという気も進まず。ゆったりと流れる時間はとても心地良い。
 なのに。何故かその後勢いよく正面衝突した。

「なんで?ダンデさんは私の付き添いでしょう?」
「俺が君にお礼をするための今日じゃないか」
「私最初から奢ってくださいなんて言っていないじゃないですか。奢っていただく理由がないですよ」
「だから君に礼をするためだろう?」

 堂々巡りが白熱してしまう。
 会計をどちらが済ませるかでなんと揉めているのだから驚きだった。
 私は一言も奢ってくれなんてねだっていないし、寧ろ付き添いで来てもらったのだから全部私が会計するつもりでいたのに、ダンデさんが私の分も全て支払うなどとのたまうのだから。個別会計すればそれで一件落着なのにそれも却下されてしまって、どうしても自分で全てきっちり支払いたいらしい。意固地め。

「……まぁどっちでもいいんだけどさぁ。こういう場合はさ、お嬢ちゃん、男の顔を立ててやんなよ」
「えっ」
「さすが店主、話がわかる人だ」
「だろう?チャンピオン」
「……」
「そんなおざなりな変装でバレてないと思ってる方が可笑しいって」

 けたけたと笑い出した老齢の店主は「ついでにサインね、飾れば孫が大喜びする」とちゃっかりと頼んでいるが、完全に納得しきれていない私はむすり顔を晒している。
 気のない相手に思わせぶりな態度はとってはいけない、と私を叱った友人の言葉を自分で捏ねて考えた結果、狙ってもいない男性に奢ってもらうのはいただけないなと導き出した末の答えだったのに。

「そんで、次来たときにお嬢ちゃんが払えば?」
「……それはつまり」
「次回のご来店をお待ちしておりますよ。あと黙っておく駄賃ね」

 やるな店主経営者の鑑か。あと、黙っておくってそれはまさかつまり。
 だがしかしダンデさんが嬉々として「また来たいな」などと目を細めるものだから、すっかりと誤解の種を潰し損ねてしまったではないか。
 不服だったが奢ってもらって二人で店を出て暮れかけている夕陽の下に出た直後、あ、と思い出して「すいませんちょっと待っててください」と慌てて断りを入れて、今抜けたばかりの入口へ再び足を入れる。
 ポケモン達へのお土産を危うく忘れるところだった。早いタイミングに思い出して良かったと安堵しつつ店を出れば、ダンデさんは大人しくそこに待っていてくれた。

「テイクアウトか?」
「はい。ポケモン達に」
「君トレーナーだったのか」
「そうですよ。言ってませんでしたっけ?」
「ああ。だからポケモンのことに詳しかったんだな」
「いえ、一般常識程度ですよ」
「今は?連れてきているか?」
「まぁ……」

 つい言い淀んでしまった。何せ今日は手持ちがイーブイだけなので、ここで出してしまえば店内で危惧したことをものの見事に現実にしてしまうだろう。
 だがしかし、目の前のポケモン大好きお兄さんは目を爛々に輝かせて「見たい」とたったのそれだけで訴えてきていて、うっ、と輝きに押されてつい狼狽えてしまった。ダンデさんは私より年上の筈なのに、なんだかずっと年下の子供みたいと思う瞬間が今日だけで多々あり、ますます印象が変化していく。もうすっかりと、ついこの前まで抱いていたチャンピオンへのイメージなど色んな意味で払拭されていた。
 宝石よりも煌びやかな瞳に根負けして重い足で広場へと移動し、最初にイーブイの臆病さについて了解を得てからボールを放る。眩い光の中からすぐさま現れたイーブイは、ぶるるっと一度体を震わせて狭いボールからの解放を喜び、私を見上げてパッと笑みを浮かべ近寄ろうとした矢先、私の隣に立つ見知らぬ大きな人間を発見して、ぴゃっと小さな体が跳ねた。
 ぴゅん、と小さな体が私の足の裏へと逃げる為に駆け足で回る。見慣れた光景だ。
 戯れたくてうずうずしているでかい図体の男は、最初はショックを受けた様子だったけれど、じり、じり、と私の背後へ回ろうとにじり寄っているが、ダンデさんが動いた分イーブイも移動して回るので、私を中心にして一人と一匹がぐるぐると攻防を続けていた。

「……目が回りそうなのでどっちかが諦めて」
「ブイ!ブイッ……ブイ〜〜!」
「なんてね、ごめんごめん。当然イーブイを選ぶから」

 必死ながら悲痛そうな鳴き声を上げるイーブイを笑ってから抱っこしてやり、ふさふさの毛を撫でてやると顔を私の胸元へと埋めた。ぐりぐりとしていることから、事前予告なくでかい男を見つけてよほど恐ろしい思いだったのだろうな。

「でもほら、イーブイ、よく見てごらんこの人。イーブイも知ってる人でしょう」
「……?」
「ダンデさんだよ、ダンデさん。昔ブッ倒せたらいいねって意気込んだでしょ」
「え、そうなのか?」
「はい。ジムチャレンジ参加した時。その時には貴方がもうチャンピオンだったので。まぁでも、バッジ全部集められなかったんですが。私、弱くてダメなトレーナーですよ」

 それは少し、苦い思い出だった。
 ジムチャレンジに参加。それはイコールチャンピオンを目指すことと同義だ。元は引っ込み思案だった私に両親が自信を持たせるために勧めてきたことだったが、もちろん私だってそのつもりで意気揚々とジムチャレンジに臨んだ。けれど元来の自信を持てない性格のせいで衆人環視の中のバトルに結局適応できず、あるのかすらわからない実力を発揮することもできずに中盤よりも手前でリタイアとなり、ポケモン達には悪いことをしてしまったと、今でも苦いものが込み上げてくる。
 特に、イーブイには。今や長年のパートナーとなったこの子の性格を思えば私が一番自信を持って、真っ直ぐ背を伸ばしてきびきびと指示を出してやらなければならなかったのに、それがどうしてもできなくてたくさん痛い思いをさせてしまった。後悔の連鎖で記憶の蓋が外れて当時の光景が蘇ってしまい、腕の中のイーブイを少しきつめに抱き直す。

「それは言ってはいけない言葉だ」

 苦い回顧の海の中を癖で一人漂っていると、そんなはっきりとした口調が差し込んで、ハッとして顔を上げる。酷く真剣な顔つきでダンデさんは私を正面で見据えている。あまりに力強い眼差しに、瞬きを忘れた。

「ポケモンにはトレーナーしかいない。君のポケモンも、そのイーブイにも、君が全てだ。君が強い弱いは関係ない。強さは後からでもついてくるが、ただ、ポケモンを信用しなくては何も始まらない。自分の足で立って、パートナーのポケモンを信じて。パートナーは君を信じて全力で戦うんだ。自分を卑下することは即ち、ポケモンに対しても同じ行為だ。だから自分をそんな風に言ってはならない。それがボール一つでポケモンを使役できてしまう俺達トレーナーの責任だ」

 ――ああ、そうだ。この人は、ガラルのチャンピオンで、ただただポケモンが好きな人だった。
 大人のくせに迷子癖が酷いとか、存外ころころ表情が変わるだとか、子供みたいにはしゃぐだとか。そういうこともきっとこの人の取り繕わない有り様だけれど、私は、チャンピオンと相対していたのだった。私が辿り着けなかった玉座が置かれる場所で、ずっとそこを守護している人と。
 本当に、不思議な人。言動に一貫性があるように見えてそうでもなかったりする、子供と大人が同居しているような人。
 だけどこの人は、紐解いてしまえばやっぱり、ただひたすらにポケモンが好きという根幹で成り立つ人なのだ。

「……初めて」

 真剣な顔をしていた筈のチャンピオンが、ダンデさんが、徐々に目を見開いた。

「初めて、そんなこと言われた。……周りはね、両親も含めて、頑張ったね、辛かったねとしか言わなかったんです。誰も私を責めなかった。自信を持てない気質ってわかっていたから、触りが良い慰めだけくれた。大きくなって友達にその時のことを話しても同じだった。誰も、ダンデさんみたいなこと、言ってくれなかった」

 あの時はそれで心が落ち着いた。責められないことは楽で、同調してもらえることは心の安寧に繋がった。私は悪くないと言って貰えることがその後の発展に少しも結ばれない言葉だったとしても、それこそ自信が何一つ持てなかった私には、ぬるま湯の中に入れてもらえることが自分への何よりの慰めだったから。

 そうやって、誰も、私を責めなかった。

「あの頃、誰かがそう言ってくれていたら、もしかしたらもう少しは、トレーナーとしてやれてたかな」

 責めないことは、責められないことは、良いことばかりではない。大人になるにつれて少しずつ発見したこと。
 私はもっと、トレーナーとしての矜持を持つべきだったのだ。

「今からでも遅くはないだろう。君は、もうトレーナーではないのかい?」
「……ううん、トレーナー、トレーナーです。トレーナーでいたい」

 腕の中の愛しい存在の為に俯くと、いつの間にか胸元から顔を上げて腕の中から私を見上げていたイーブイが、近くなった私の鼻先をぺろりと舐めた。ファンデーションが塗ってあるからいつもダメだと言っているのに、昔からこうしてイーブイは私を許してくれようとする。

「なら、やろう!」
「え?」
「トレーナー、やろう!」

 そして俺とバトルだ!そう、真剣だった顔を一変させ、歯を見せて大きく笑うダンデさんは、暮れかけのオレンジみたいな夕陽の光に照らされていて、なんだか滲んでいて。
 そうやって、さっきからずっと、知らんぷりしてくれている。

「……チャンピオンとのバトルなんて、簡単にしてもいいことなんですか」
「バレなきゃいいんだ」
「……ふふっ、いけないんだ」

 視界の滲みを払うために、目元をそっと拭った。

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